津山藩 (つやまはん)
≪場所≫ 津山市


津山藩からは箕作阮甫(みつくりげんぽ)が出ている。
藩医の家柄出身で、京都へ遊学し、漢医学を修得し、
ついで江戸にて蘭学を学んだ。
幕府によって蕃書調所が創設されると阮甫は、その教授
兼筆頭となった。また、蘭学者ではじめて幕臣となり、
西洋諸国の情報の伝授に貢献した。

阮甫の範囲は医学に留まらず、兵学・地誌・歴史・地学・
天文学と幅広く多方面に広がり、著書や訳書を多数、
手がけた。
独創的な思想には欠けたが、日本の黎明な学問を著しく
啓蒙させる大役を果たした。
また、ロシアやアメリカとの外交使節とも交渉を成し、
国内屈指の学識者として国事にもよく貢献した。

阮甫の一族から洋学者・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)や
地理学者・箕作省吾(みつくりしょうご)など優秀な人材が
輩出した。

秋坪は1861年(文久元年)に幕府による遣欧使節に同行
し、西洋文明に触れ、啓蒙を成している。
帰国後、学識を認められ、幕臣に採用された。
高等師範学校の基礎を築くなど学問発展に貢献。
秋坪の子・菊池大麓(きくちだいろく)は数学者となり、
東京大学総長に就任している。

箕作省吾は著書『坤與図式(こんよずしき)』(※阮甫も
加筆した)は、井伊直弼や鍋島斉正ら外国通の知識人に
外交方針の提案を成した。
吉田松陰や桂太郎ら志士たちの間でも西洋知識の啓蒙
に貢献した。
惜しいことに省吾は早世してしまい、その後の活躍を歴史
上に見なかったが、その子・箕作麟祥(みつくりりんしょう)
は万国博覧会使節・徳川昭武に同行し、フランス留学を
果たした。
麟祥は日本国の成文法の起草などを成し、日本の近代
国家の基礎作りに大いに貢献している。