足守藩 (あしもりはん)
≪場所≫ 岡山市


足守藩からは幕末屈指の蘭学者・緒方洪庵(おがたこうあん)
が出ている。洪庵は優秀な医学者でもあり、俊逸な人材育成
にも尽力した大人物である。
洪庵は足守藩士の家に生まれ、幼少の頃に全国で流行した
コレラの悲劇を見て、医者を志したという。
大坂・江戸と遊学し、さらには長崎へ赴き、シーボルトに師事
して、二年間の修業を成した。
洪庵の熱意は素晴らしくシーボルトも、洪庵を第一級の学識
者と高評したほど。

医学の極意を得て、大坂にて適塾(てきじゅく)を開いた。
※適々塾(てきてきじゅく)とも、適々斎塾(てきてきさいじゅく)
とも称した。
この適塾は大好評を得て、全国から3000人もの塾生を
集めた。「およそ蘭学者を志す人はみなこの塾に入り、その
支度を成す」と謳われ、塾は学都の賑わいを見せた。

教授の内容は、蘭語訳読を中心とし、一週間に一度ほど講義
が開かれ、そこで蘭語訳読の成果を塾生が披露し、それに
よって、進級を決したという。
講義に日々縛られることなく、自由研究を行い、放任主義で
あったが、講義の時間は厳格を旨とし、個人的な行動は一切
許されなかったという。

門下生には大村益次郎・橋本左内・大鳥圭介・箕作秋坪・
福沢諭吉・長与専斎(ながよせんさい※のち医学者)・佐野
常民(さのつねたみ※のち日本赤十字社初代社長)など
数多くの俊才を育成した。

洪庵の医学に対する姿勢は素晴らしく「病気に対してはただ
病者を視るべし。貴賎貧富を顧みる事なかれ」と称して、
医学はただ仁術によるべきことを信条とした。
足守藩侍医として活躍していた洪庵だったが、1862年(文久
2年)に洪庵の高評を聞き、幕府の奥医師となる。
また、西洋医学所頭取を兼務し、当代一の医学の大家と
なった。
順風満帆の進歩を遂げた洪庵だったが、翌年の1863年(文久
3年)に喀血(かっけつ)して志半ばにして没した。