福山藩 ふくやまはん
≪場所≫ 福山市


 福山藩からは、幕末の幕府に新風を吹き込んだ阿部
正弘が出ている。
 天保の改革に失敗し、失脚した水野忠邦に代わって
、正弘は弱冠25歳という若さで老中職に就いた。
その後、老中首座となり、幕政を取り仕切ったが、この
時期にペリーが来航するなど欧米列強の外圧が増し
はじめた。
正弘は、この諸外国との条約交渉を余儀なくされ、この
難題に終生、取り組むこととなった。
ペリー来航を契機として、正弘は仰天の政策を成す。
朝廷・諸藩・民衆と全国民に対して欧米列強との外交
をいかにすべきか問うことにしたのだ。
 この幕政始まって以来の意見募集には、さまざまな
意見が出された。徹底攘夷を主張した強硬派は34藩
、アメリカ大統領の国書を一応受け取って、議論すべき
という慎重派が14藩、欧米諸国と交易を成すべきと主
張した積極派は彦根藩と福岡藩の2藩だけとなった。
 朝廷は徹底攘夷を主張し、七社七大寺に外夷退散
を祈願している。
 これら正弘が取った全国民に意見を聞く政策は、幕末
泰平の世の中をひっくり返すような物議を起こした。
全国民が欧米列強の外圧からどうすべきかを考える
きっかけを作ったことは確かである。
 正弘は結局、国書を受け取り、欧米諸国と外交交渉
を成す以外にないと決断する。こうなると幕政改革を
成して、新たな組織機関を作らなければ、欧米諸国と
の対応ができない。
 正弘は幕政改革を成すとともにその率先と実験の場
として、自分の郷里・福山藩に藩政改革を命じている。
西洋兵学に詳しい江川太郎左衛門の下に福山藩士を
派遣して勉強させ、福山藩の領内にある寺から鐘を
集めてきて溶解して大砲数十門を鋳造している。
 ついで、幕政改革を成すためにすぐれた人材を集め
、幕府要職に就ける人事刷新を図っている。
 川路聖謨・岩瀬忠震・永井尚志・江川太郎左衛門・
高島秋帆・勝海舟など開明で優秀な人材を幕政に参加
させている。