高松藩 たかまつはん
≪場所≫ 高松市


 高松藩主・松平頼胤は水戸藩主・水戸斉昭の兄である。
斉昭幽閉の時は、水戸藩政に携わり、尊攘派志士として
活躍している。
 しかし、その頼胤の妻は、11代将軍・徳川家斉の娘・文
姫であり、佐幕の私情もあった。また、頼胤の子で高松藩
11代藩主・松平頼聡(まつだいらよりとし)の妻は井伊直弼
の娘であり、やはり佐幕としての心情が強い。
 勤王の教えと佐幕の私情という二つに挟まれ、苦しい選
択を迫られたのである。表向きの藩の姿勢は、親藩という
こともあって、佐幕の方針を取っていた。
 だが、高松藩のご意見番と謳われた松平金岳(まつだい
らきんがく)は、熱心な勤王思想の持ち主であった。金岳
は頼聡の伯父で頼胤の兄であるだけにその存在は大きく
、権限も強かった。表向きは、楽隠居を成し、優雅な芸術
三昧の暮らしをしていたが、影では尊攘の志士たちを支援
し、身柄をかくまったりもした。
 金岳に支援や隠れ家を提供された志士は、数多くいる。
長州藩の高杉晋作・桂小五郎・久坂玄瑞、土佐藩の中岡
慎太郎、肥後藩の宮部鼎蔵、公卿の中山忠光・沢宣嘉、
備前の藤本鉄石など多々いる。
 佐幕と勤王に揺れる高松藩であったが、鳥羽・伏見の
戦いでは、高松藩軍が元将軍・徳川慶喜を救うべく、佐幕
として参戦したことで、藩は窮地に追い込まれた。
 佐幕の藩として見られ、土佐藩や薩摩藩が強硬に征討
軍を高松藩に向けようとしたのである。しかし、この危機
的状況を脱するために金岳が動いた。
 まず、勤王運動をして、藩の獄に入っていた勤王の志士
たちを助け出し、藩の方針を勤王に転換することを図った。
この時、金岳に助け出された勤王家に日柳燕石(くさなぎ
えんせき)がいる。燕石は讃岐・琴平界隈(ことひらかいわ
い)の博徒の首領のような人物で、勤王運動を成していた
ことから投獄されていたのだった。
 燕石は賭博の荒くれ者であったが、詩人として高い教養
を持ち、周囲のものを納得させる博学の人物であった。

 金岳が藩内の勤王家の助命運動を成していた頃、大坂
にいた高松出身の儒学者・藤沢南岳と浪人の山崎周祐が
高松藩にかけられた朝敵の汚名を回復しようと奔走して
いた。
 彼らはかつて長州藩が朝敵となった時に三家老の首を
差し出して、赦免を成したことを見習って、藩論を勤王に
定めて、家老の謝罪切腹によって、高松藩の難を逃れる
ことを考え一路、高松藩へと帰藩したのであった。

 三日三晩に渡って、高松城内では議論が闘われたが、
結論が出なかった。仕舞いには、討伐軍と一戦交えて、
総員玉砕も覚悟する意見に傾きかけたが、藤沢南岳が
大演説を打った。
 「単に薩長土の諸藩同盟と戦うというのであれば、徳川
家の親藩として、戦う意義は十分にある。しかし、今の状
況は、官軍による追討戦である。これと応戦すれば、わが
藩は朝敵となり、松平家も断絶となろう。そうなれば、いっ
たい祖先に対して、何の面目があろうか。今はただ、勤王
の姿勢を見せ、降伏するに限る」
 と力説し、なおこれに反論する重臣に対して、今度は金
岳が激しく怒った。「南岳の言うことを聞かずにあくまでも
官軍と戦うと申すのであれば、まず私の首を斬ってからに
せよ!」と大喝し、ついに藩論は決した。
 勤王の姿勢に徹し、官軍に対して恭順降伏の態度を示し
たのである。高松藩は佐幕の姿勢を取った責任として、家
老二名が切腹し、その首は追討軍に提出され、謝罪の意
向とした。
 こうして、一度は朝敵の汚名を着て、佐幕の姿勢を見せ
ていた高松藩は、尊王思想の正しさを悟り、尊王恭順の
姿勢を見せたのであった。
 その後は、新政府に対して、軍資金の献上を成したり、
奥羽戦争に参軍して、旧幕府軍と激戦を繰り広げるなど
終始、勤王の姿勢を貫き、汚名の雪辱に苦心した。