松山藩 まつやまはん
≪場所≫ 松山市


 伊予国内では、一番大きい領土を持つ藩であり、しかも
親藩ということもあって、佐幕の意向も強かった。
幕命により、長州征討の第一次、第二次ともに出陣を
成している。第二次長州征討戦では、松山藩は宇和島
藩・土佐藩・高松藩・徳島藩ら四国諸藩とともに長州に
出陣しているが、これら諸藩は戦闘を渋り、一兵も戦場
へ出さなかった。
 しかし、松山藩だけは、前回の征討戦よりも多い1500名
を出陣させ、積極的に進攻戦を展開した。松山藩軍は
長州が守備する大島を攻め立て、小勢の留守部隊を蹴散
らし、緒戦を勝利で飾っている。
 しかし、その後、大島奪還をを計る長州藩軍が攻め込ん
で来ると松山藩軍は苦しい戦闘を強いられた。軍の装備
に違いがありすぎ、小勢の長州藩軍に攻め立てられ、
激戦の末に散々に敗退した。

 第二次長州征討戦で手痛い敗退を喫した松山藩であっ
たが、佐幕としての強い姿勢を見せたことで、幕府から
信任されて、大政奉還が迫る1ヶ月ほど前に14代松山藩
主・松平定昭が老中に任じられている。
 しかし、藩内ではもはや佐幕の姿勢は、無理との判断が
先行しており、藩の重臣たちは藩主に対して、職の辞任を
勧めている。
 そして、大政奉還から4日後に定昭は老中職を辞任して
いる。しかし、この行為に幕府と松山藩と同じ親藩から
不評を買っている。
 鳥羽・伏見の戦いでは、松山藩と同じ親藩である会津
・桑名藩から疎外されて、後方の警備に松山藩軍はまわ
される始末だった。
 官軍と戦うに当たって、信頼できないと幕府・親藩から
思われていたのである。その後、鳥羽・伏見の戦い後、
直接官軍と戦っていない松山藩であったが、朝敵と見な
され、不運続きと成る。
 その後、新政府側から勤王か佐幕か意向を問いただす
書状が届くと、松山藩は一挙に勤王恭順の論に決し、
朝廷に対して、一切の異心のないことを現した。
 勤王派の姿勢を鮮明にした松山藩に対して、新政府は
軍勢を出すように要請せずに、戊辰戦争のための軍資金
を工面するよう要請した。
 実に15万両という途方もない莫大な軍資金の献納を命
ぜられた松山藩では、この資金の工面に大いに奔走して
いる。