大洲藩 おおずはん
≪場所≫ 大洲市


 大洲藩は早い段階から、勤王思想を強め、禁門の変後、
宮廷守護を命ぜられ、ますますもって、勤王思想が燃焼し、
ついには家臣を総登城させて、勤王の志を唱えて、藩論を
勤王一本に統一している。
 この大洲藩の勤王派としての先駆者は、12代藩主・加藤
泰祉(かとうやすとみ)であった。泰祉の侍講に勤王急進派
の人物がいて、その影響を泰祉が強く受けていたことに
よる。

 1866年(慶応2年)には、藩の兵制を近代化するために
西洋銃器の購入をすべく、国島紹徳を長崎に派遣してい
る。この時、国島は土佐の坂本龍馬から勧めを受けて、
薩摩藩の五代友厚に会い、その周旋で蒸気船・アビソ号
を購入している。
 450トンの鉄船でできており、船名を「いろは丸」と改称
して、大洲藩の持ち船となった。代金は4万2500両という
莫大なもので、支払いは五回払いとした。
 いろは丸が大洲藩の長浜港沖にその姿を見せると拍手
喝采の好評を博したが、独断購入を成した責任を負って、
国島は後に切腹している。

 長崎・長浜の間を四回航海したいろは丸であったが、そ
の後、土佐藩の後藤象二郎に頼まれて、土佐藩に一回
の航海で500両の貸し賃を受けて、貸し出している。
 いろは丸は坂本龍馬たち海援隊が操縦して、武器・弾薬
を運送したが、不運にも1867年(慶応3年)4月23日未明
に濃霧のため、海難事故に遭遇している。
 紀州藩が所有する巨船と衝突して、いろは丸は瞬く間に
積荷とともに沈没している。龍馬の巧みな交渉によって、
多額の賠償金を得て、大洲藩としても大損を免れている。