薩摩藩の藩政改革



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調所広郷の改革


 幕末における薩摩藩の藩財政は、いちじるしく窮乏を極めていた。
 文政年間には、負債500万両、年間利子は60万両という途方もない借金地獄であった。
この借金の重荷に対して、薩摩藩の年間経常収入は、14万両前後であったのだから、絶対に返せる金額幅ではない。

 この事実上、絶望的な返済に対して、薩摩藩は藩政改革を推進するにあたって、切り捨てた。
 薩摩藩の藩政改革の中心事物となった調所広郷(ずしょひろさと)は、この負債を踏み倒す形となる、「250年の年賦返済、および無利子とする」などと勝手に決めて、商人に一方的に通達した。
 これには、薩摩藩に融資していた大坂の商人たちを混乱させた。倒産する商人まで出したが、薩摩藩には何の沙汰もなかった。
 調所は幕府への介入をなくすために前もって、10万両を献金しており、薩摩藩への心証をよくしていたのだ。

 借金返済への出費を抑える一方で、税収向上のため、調所は物産の確保に力を入れた。
 まず、薩摩藩の名産・黒砂糖の専売強化を図るため、奄美三島(大島・喜界島・徳之島)への管理を徹底し、ついで、琉球を通した中国の清国との貿易を盛んにした。
 さらには、密貿易にまで手を出し、莫大な利益を藩にもたらすことに成功。薩摩藩は西南雄藩への仲間入りを果たしたのである。






島津斉彬の雄藩強化


 幕末期の諸藩の中で名君として名高い、島津斉彬は、藩主として采配を振るったのはごく短い期間だけであった。
 それもこれも、斉彬の父・島津斉興がいつまでも藩主の座に居座っていたからだった。
 その上、父・斉興は、優柔不断にも愛妾・お由良が生んだ久光に家督を継がせたいと言い出してきたから、薩摩藩内が二派に分かれて、継嗣問題が激化した。

 なぜ、藩主・斉興が長男・斉彬を廃嫡にして、久光に家督を継がせたいと所望したのにそれを反対する藩士が出たのか?
 それは、斉彬が英明闊達な人物であったからだ。海防の危機や雄藩への推進を成すには、英断を下せる斉彬の方が藩主として、ふさわしいと考える見識の明るい藩士たちが推したのだ。
 いわゆる改革派の藩士たちが中心である。一方、時代の見識に暗い保守派の藩士たちは、主従第一主義を通して、藩主が推す久光を藩主に迎えようと運動した。

 この継嗣問題の激化は、単なる藩内の利害問題ではなく、藩興亡の危機として、激しい抗争劇となった。
 藩主・斉興は、嫡子・斉彬を擁立しようとした藩士たちを強硬に弾圧した。切腹13名を出し、その他遠島など処罰が多数に上った。
 大久保利通の父もこの弾圧事件で弾圧を喰らい遠島の処分を受けている。

 この薩摩藩の不穏な騒動に幕府が介入してきた。時の老中・阿部正弘が仲裁に乗り出し、藩主・斉興を隠居させ、斉彬を藩主に任命したのである。
 阿部は、諸外国の事情に通じ、英明の誉れが高い斉彬を藩主につけることで、対外政策に苦しむ幕府の支えと成ってくれるよう斉彬に恩を売ったのであった。

 42歳で藩主となった斉彬は、矢継ぎ早に雄藩強化の方策を打ち出していった。
反射炉・溶鉱炉の建設をはじめ、鉄鋼・各種ガラスの鋳造などを盛んにし、軍需・民需の両物資を生産する力をつけた。
 多数の近代製造工場を設け、洋式技術も積極的に導入していった。これら一大工場群は、集成館(しゅうせいかん)と呼ばれ、薩摩藩が西南雄藩の筆頭と掲げられる由縁となった。

 この斉彬の雄藩強化による成果は、戊辰戦争など激動の時代が到来した時に、いかんなく発揮されてゆく。
 まさに島津斉彬あっての薩摩藩と成るのである。





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