幕末期における、長州藩の財政事情も他藩と同じく、窮乏を極めていた。 負債額は銀8万貫を超え、いっこうに返済のめどは立っていなかった。税収力を強化すべく、長州藩は専売制の強化を断行したが、すでに長年の疲弊生活を強いられていた民衆は、この藩の圧迫に憤慨し、六万人に及ぶ大一揆が勃発した。 この一揆は3ヶ月以上にわたって藩内に混乱を招き、事態の収集にあたった藩でも、この民衆の反乱を重く受け止めた。 その後の藩政改革を推し進めるにあたって、天保の大一揆に対する失敗を踏まえて、対民衆政策を考慮した政策が実施されていく。 ”そうせい侯”で知られる長州藩主・毛利敬親は、藩政改革の切り札として、村田清風を投入した。 村田は、民衆への理解と藩士たちの結束によって、藩政の改革を成就しようと考え、藩の財政状態を藩士たちなどに公開し、改革に対する意見を広く求める方策を打ち出した。 事は急を要するだけに藩の役局などで意見を提出しない者がいれば、役儀を罷免するという強制的な処置を取る一方、有能な人材は身分によらず重く登用する処遇を成した。 こうした実力主義の人事改革を藩内に提示したことで、藩政改革への活発な議論が成されるようになり、藩内の風潮も一新された。 藩の流れを改進へと転換することに成功した村田は、負債の整理を進めるとともに緊縮財政を実行し、新たな藩による事業も展開した。 下関に越荷方(こしにかた)を設置し、ここを通る藩外の船を対象に金融兼倉庫業を営み、莫大な利益を藩にもたらした。 その一方で、民衆への圧迫を緩める対民衆政策を打ち出し、専売制の圧力を弱める政策を実現させた。 この一連の藩政改革は、長州藩全体で改革を成し遂げるという独特の風潮を生み出し、荒削りながら、すぐれた実利を生み出す実力主義の活発な人材を生み出す源泉となった。 また、民衆の気概が強く藩政に反映される土台も強化され、積極的な政治意識を持った民衆を生み出すことへとつながり、幕末期に活躍する奇兵隊を誕生させる要因となった。 以後の長州藩の改革は、富国強兵という軍政両面へと拡大強化されていった。 藩領沿岸の海防体制の改善と近代兵器による軍備強化、洋式兵制の採用、さらには洋式造船を興し、大砲・西洋銃の鋳造などを成した。 積極的な富国強兵策により、長州藩は大いに自信をつけ、西南雄藩の中心的な存在として、幕末動乱に覇を唱える存在となった。 尊攘思想が全国に広がった時、その旋風の中心となり、攘夷の先駆けを成す勢いを現したのも、長年の富国強兵策によって、改革成功を成した自信満々の境地から発せられたことは言うまでもないことである。 長州藩の強い気概が日本改革の推進剤となっていったことから見ると、長州藩が取った藩政改革は、素晴らしい成果をもたらしたことを意味し、同時に全国随一の政策を取っていたことを証明しているのである。 |