実質石高60万石とも70万石とも言われる佐賀藩でさえ、幕末期の藩財政は窮乏していた。 藩の財政も藩士たちの生活もともに窮乏し、商人たちへの支払いも日々事欠くほどであった。 そんな状況の中、1830年(天保元年)に藩主となった鍋島閑叟(なべしまかんそう※直正)は、藩主が主導となって、藩政改革を断行していった。 閑叟は側近にして、自身の学問の師と仰ぐ古賀穀堂(こがこくどう)から方策案を受け、それを藩政で実施していった。 古賀は、藩政改革の要として農民を縛りつけている小作料の支払いをなくすことを主張し、地主制度の悪循環をなくさせ、均田制による理想的な統制を図ることを勧めた。 閑叟はその古賀の方策案を採用し、藩内の反対を抑えるべく、自らが指揮を執り、実施に踏み切っていった。 小農の保護を推し進めていく一方で、藩庁の人員整理を行い、藩の大きな出費となっていた俸禄米を減らした。 小農統治の改正を成し、均一な年貢徴収を確保したものの負債整理は、はかどらなかった。 そこで、閑叟は新たな資源による出荷品の増強を図ることにした。すでに一部の諸藩では、石炭を使い、工業稼動の原料としていたことから、佐賀藩で採掘される石炭を他藩に出荷することで莫大な利益を求めた。 まず、松浦郷や高島・福母で採れる石炭の採掘量を増産させ、出荷量の安定を図ると共にその他の名産も他藩へ売り込み、多重による利益拡大を図った。 白蝋(はくろう)や小麦、陶器など佐賀の地、特有の名産も売れ行きを伸ばし、藩財政は瞬く間に黒字へと好転した。 莫大な利益を得た閑叟は、自ら好む西洋技術を積極的に藩内に取り込み、多くの人材を育成させ、西南雄藩の仲間入りを成した。 蘭方医学や洋式兵学、砲術の研修を藩士に奨励し、技術者の育成を目指す一方で、藩内に反射炉を築造して、大砲鋳造の量産化に国内ではじめて成功した。 ペリー来航後、海防力強化を急務とした幕府が、国内最先端を行く佐賀藩の大砲鋳造技術に目をつけ、大砲購入の発注を出すなど国内海防に大きな影響力を持った。 また、幕府が独自に反射炉を築造するにあたって、佐賀藩から技術者を招いて、技術指導を仰ぐといったことも行われ、佐賀藩は国内で西洋技能における第一人者といった存在となった。 長崎伝習所が設置されると佐賀藩でも研修生を出し、西洋技術を学ばせていたが、それを教授する外国人技術者が「佐賀藩の伝習生が最もすぐれ、最も進歩している」と高評するなど閑叟の西洋技術の研修奨励の方策が大きな成果を挙げている。 熱心な技術修練を藩政改革の主軸として推進した閑叟であったが、技能の流出を防ぐため、”二重鎖国”という他藩にはない一風変わった規制を藩内に布いている。 この禁令の下に、優秀な人材が幕末動乱の間、ほとんど活発な運動を展開できなかったことは、まことに残念ではあるが、この藩士たちの運動を抑えることで、水戸藩や土佐藩に見る逸材の損失をなくせたことは、一定の評価を与えられる方策であったといえる。 水戸藩では、武田耕雲斎、藤田小四郎ら天狗党の逸材を失い、土佐藩では吉田東洋、武市半平太ら逸材を失っている。 これら逸材の損失を抑えた佐賀藩からは、維新後に大隈重信、江藤新平、副島種臣など優秀な人材が日本近代化に大きな功績を残している。 |