土佐藩の藩政改革



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吉田東洋の改革


 土佐藩での藩政改革は、門閥派による抵抗と勤王派による抵抗という二重の抵抗因子がいたため、その推進には困難を極めた。

 まず、土佐藩の藩政改革を志したのは、山内豊煕(やまのうちとよてる)であった。
 1831年(天保2年)に豊煕は、若手の馬淵嘉平(まぶちかへい)を登用して、藩の財政健全化を推進させたが、反対派からは「おこぜ組」として手ごわい反発を喰らい、ついには改革派の解散・処罰という憂き目を見ている。

 一度目の藩政改革が失敗に終って、まもなくして名君として名高い山内豊信(やまのうちとよしげ※容堂(ようどう))が藩主となり、二度目の藩政改革が開始された。
 容堂が藩主となったのは、1850年(嘉永3年)であったが、すぐには藩政改革を起こすことはできなかった。
 それは、土佐藩内で権勢を振るう保守派門閥層の力が強く、いかに藩主とはいえ、改革推進を断行することは難しい状況であったからだ。

 やがて、藩主としての権勢を取り戻した容堂は、抜群の政務力を持つ吉田東洋を起用して、門閥派の反発を抑えながら、改革を推進していった。
 藩内の反対者による改革反対を抑圧して、改革する独自の方策を成した土佐藩は、徐々に改革の成果を挙げ、西南雄藩への仲間入りを果たすのであった。
 こうした改革の支持者は中間身分の藩士層であり、土佐藩独特の階級制度が背景にはあった。
 そもそも土佐藩の成り立ちは、関ヶ原の戦いにて、東軍についた山内一豊が西軍についた長宗我部氏の改易にともなって、土佐統治に入ったのが、始まりで、土佐一国支配を命じた徳川家への恩義は多大なものがあり、幕末期に入っても佐幕派としての思想が藩上層部を支配した。

 しかし、もともと土佐国は長宗我部氏が支配していた土地で、長宗我部氏が改易となっても、その家臣団はそのまま土佐に残った。
 長宗我部氏の後釜として他方から乗り込んできた山内氏は、直臣たちを土佐藩の上級藩士として、起用し、土着の旧長宗我部氏の家臣たちには、その風下に置く中級以下の藩士と定めた。
 そのため、藩政の権力は常に山内派藩士たちに握られ、旧長宗我部氏家臣団の藩士たちには、いっこうに有利な条件での政権にならなかった。
 この水と油の状況が傲慢で保守派の門閥が藩の上層部を支配し、改革がなかなか進まなかったのである。

 土佐藩では、上層部の藩士たちは佐幕派で、中間層以下の藩士たちの間では勤王派が主流を占めた。
 上層部の藩士たちが佐幕派なのは、徳川幕府によって、土佐統治を得られたという古い恩義から由来するもので、逆に中間層以下の藩士たちは、徳川幕府によって、長宗我部氏は改易となり、山内氏家臣たちの風下として生きていかなくてはならなくなった由縁から幕府を憎む勤王派となっていったのである。

 坂本龍馬も中岡慎太郎もともに中間層以下の藩士で郷士と呼ばれる階級であった。
彼ら中間層以下の藩士たちが中心となって結成されたのが、土佐勤王党である。
 武市半平太(※瑞山)が盟主となり、土佐藩による勤王派運動を京都で展開していくのだが、佐幕派の吉田東洋の弾圧に遭遇すると戸惑うことなく、藩の権勢を誇った吉田東洋を暗殺するという暴挙を成した。
 この事件は土佐藩では藩の内部で、上層部と下層部とのいがみ合いが尋常ではないということを示しており、旧来からの積年の恨みを晴らした形でもあった。
 その意味で、土佐藩の藩政改革はまずまずの成果を挙げながら、藩全体の理解を得ることができず、命がけで行わなくては成らなかったところに特色がある。





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