水戸藩の藩政改革



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藤田東湖の改革


 水戸藩の藩政改革は、天保の改革に際して、いち早く着手しており、幕府や諸藩の改革の手本として大きな影響を与えた。
 国内に改革旋風を巻き起こした水戸藩の改革は、藩政だけに留まらず、思想的改革も同時に成した所に大きな特徴を見る。

 後期水戸学の改革論は、尊王攘夷思想の根幹を成し、幕末に活躍する志士たちのバックボーンとなっている。
 ※バックボーン[backbone]とは、物事の基幹となる部分を指す。人の生き方や信条などを貫いて揺るがない部分を意味する。

 水戸藩の藩政改革の始まりは継嗣問題が解決した後からである。すなわち、幕末藩士たちの活眼の師・徳川斉昭が継嗣抗争に打ち勝ち、九代藩主となった1829年(文政12年)から改革推進が成ったのである。

 天保の改革をスタートさせた斉昭は、まず逸材の人事登用から始めた。藤田東湖・会沢正志斉ら改革派の藩士たちを起用して、多方面にわたる藩政改革を推し進めたのである。
 まず、農村復興という地域繁栄が藩全体を活性化させると考え、郡奉行の人事を刷新して、政務の回転速度を上げ、藩政の改革が藩内隅々にまで行き渡るようにした。
 欧米諸国の動向も察知して、海防の危機を予見して、軍備増強にも積極的に着手した。
 高島流洋式兵学のもとで鉄砲鋳造や銃隊を強化する編成を成し、近代軍制の導入を進めた。
 ついで、斉昭は大船建造の解禁を幕府に要請し、解禁が成ると洋式軍艦の建造を行い、海防強化を図るため、藩領沿岸に藩士たちを配備する人事移動も遂行した。

 今までになかった新しい藩政改革を他藩に先駆けて行ったことで、幕藩体制の崩壊を危惧した幕府は、改革の行き過ぎをとがめ、1844年(天保15年)に斉昭を藩主権の座から失脚に追い込む。
 以後は改革推進派と門閥保守派との抗争が激化し、その収集が次第に困難と成っていく。
 藩士一人一人を統制することができなくなったのは、尊王攘夷思想を藩士に徹底的に浸透させたことで、藩士個人の独自性が強調され、藩論の統括を困難とさせたことに起因する。
 特に1855年(安政2年)に起きた安政の大地震によって、藤田東湖と戸田忠敞(とだただたか)が圧死してからは、藩内の重石が取れたように空中分解の危機を招いた。

 そして、徳川斉昭が没してからは、完全に藩政の中心を失い、藩の統制は空中分解をきたした。
 改革派と門閥派の抗争に幕府の支援を受けた保守派が加わり、三つ巴の覇権争いとなり、ついには、改革派からさらなる過激な尊攘を謳う天狗党が結成され、武田耕雲斎と東湖の孤児・藤田小四郎を盟主として、幕府や諸藩を巻き込む兵乱を起こす暴挙を成した。

 尊攘派の総本山として、幕末志士たちの思想の根源となった水戸藩ではあったが、総本山の抗争は、藩士たちが互いに自分の思想を正当と見なしたことから始まる、意地の張り合いとなり、藩の全エネルギーを内部抗争に費やしてしまったところに不運があった。
 ”幕府のご意見番”としての立場から、佐幕派の思想を最後まで捨てきれなかったところに尊攘派としての活動がいつまでも煮え切らない事態を招いたのである。
 その意味で日々抗争に明け暮れた水戸藩は、国事への憂いがもたらした悲劇の藩であり、藩士一人一人が真剣に日本の行く末を考えあぐねた憂国の士の巣窟であった。
 
 維新後に活躍する人材を事欠くほど、水戸藩内の抗争は激しさを極めたが、命がけで国政を憂いだ姿勢は、西南雄藩らに大きな勇気を与えたことは確かである。
 国政第一主義の思想が西南雄藩に大いなる勇気を与え、幕府でも朝廷でもとにかく、動かして国難の危機を脱する改革心を燃えたぎらせたことから、水戸藩の命がけの抗争も無駄ではなかったといえるだろう。






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