生野の乱



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天誅組に呼応し、挙兵するも、
わずか三日で壊滅の憂き目を見る!


 生野の乱は、まさに強硬派尊攘の志士たちが
最盛期を迎えた直後に起きた、8・18の政変にて、
公武合体派公卿の巻き返しにあい、政局を追われ
たことへのやりきれない思いをぶつけた兵乱であ
った。

 8・18の政変前日まで、強硬派尊攘の公卿や志
士たちは、政局の主導権を握り、天皇をも動かして
大和行幸を実現させ、天皇新征をもって、幕府を
出し抜いて、攘夷を実行しようとした。
 そして、貧乏浪士などと毛嫌いされていた強硬派
尊攘の志士たちは、天皇新征の中枢を成し、権力
の座に就こうとする野心的な側面もはらんでいた。
 強硬派尊攘の思想を広めた扇動者・真木和泉や
朝廷内の強硬派尊攘の政策を主論に持っていった
公卿・三条実美たちの思惑は、まさに順風満帆で
あった。

 しかし、攘夷実行がまだ早すぎる、幕府を中心に
諸藩の武威を持って、秩序だった組織によって、
攘夷は成されるべきだと考えていた孝明天皇は、
公武合体派の中川宮に勝手なふるまいをする強硬
派尊攘の者たちへの不満を漏らした。
 中川宮は天皇の意向を察し、密かに強硬派尊攘
の者たちを出し抜く計画を立て、会津藩・薩摩藩の
武威をもって、8・18の政変を成功させた。
 たった一日の革命劇で、あの強硬派尊攘の志士
たちを出し抜き、政局の表舞台から追放したその
手際のよさは、策謀家の鑑のようであった。
 公武合体派と佐幕派は、この政変で大いに満足
した。政局の主導権を奪還し、再び幕府を中心と
する幕藩体制の秩序統制の下、攘夷実行が行わ
れることになったのだ。

 これに不満を残したのが強硬派尊攘の人々で
あった。かつては京都を我が物顔で歩いていたのに
今では、公武合体派と佐幕派に政局の主導権を
取られてしまったのだから。
 京都を追われた長州藩と三条実美らは、長州へと
落ち延び、再起する機会をうかがった。彼らには
同士たちの訃報が届いた。吉村寅太郎らが首謀者
となって、天誅組が結成され、尊攘の先駆けを成そ
うとしたのである。
 しかし、彼らは政変にて孤立無援となり、悲運な
最後を遂げた。天誅組の暴発を食い止めようと五条
に走った平野国臣(ひらのくにおみ)は、一歩遅く、
彼らの挙兵を止められなかった。

 天誅組の無念を打ち晴らし、再び尊攘の志を天下
に再燃させる必要があると考えた者たちは、生野の
乱へと突き進んでいった。
 七卿落ちの一人・沢宣嘉(さわのぶよし)を主将と
して、長州藩士・野村和作(のむらわさく)、鳥取藩士
・松田正人(まつだまさんど)、薩摩藩脱藩士・美玉
三平(みたまさんぺい)、但馬の志士・北垣晋太郎
(きたがきしんたろう)、中島太郎兵衛(なかじまたろ
べえ)らが中心となって、計画を練り、挙兵する準備
を始めた。
 挙兵の計画は、まず海防の任にあたっていた但馬
の農兵の力を利用して、挙兵するというものだった。
挙兵後は、周囲の村々から賛同者を集め、兵力を
増強し、畿内の賛同者たちに挙兵を促し、各地で
幕藩軍と戦い、ついには京都を奪還するというもの
であった。

 この強引な武力決起によって、京都奪還を目指す
計画は、血気盛んな尊攘派志士たちの賛同を得て
、長州藩の奇兵隊の一部も参加した。
 彼らは1863年(文久3年)10月8日に海路、播磨に
上陸し、北上して但馬に入った。この時、すでに彼ら
には天誅組の壊滅という訃報が届いており、一行の
中には、中止論も出たが、大半の者たちは、むしろ
今こそ、天誅組の弔い合戦を行うべきとの意見で一
致した。

 但馬まで来た彼らと遭遇した平野国臣は、天誅組
の散々な敗北劇を見聞きしてきたことを伝え、無謀
な行動は今は慎むべきと進言した。
 しかし、今さら但馬まで出張ってきて、引き下がっ
ては、尊攘派の志士たちは世間からあざけり笑わ
れるとして、公武合体派、佐幕派に一矢報いる意味
は大義であるとして、彼らは計画の遂行に決した。

 悲壮感漂うまま彼らは、10月11日未明、代官不在
となっていた生野代官所(※幕府直轄地である生野
銀山の代官所)を襲撃した。この襲撃時の挙兵数
は、わずか三十名ほどであった。
 こうして生野の乱が幕を開けると、彼らは襲撃成
功後、代官所を本営として、近隣の農民20歳〜40
歳までの者に帯刀して参加するよう呼びかけた。
すると近隣の庄屋に連れられて、続々と農兵が
参加した。その数、4000余名にも達した。
 平野らは、集まった農兵に三ヵ年の間は年貢を
半減にすることを約束し、参加した労をねぎらった。
実際のところは、庄屋たちに借り出されて、義理的
に参加した者がほとんどだった。

 ようやく兵団らしい兵数が整った者の連帯訓練な
ど一度も行っていない農兵中心の部隊である。
大した戦力はなかったが、但馬周辺の諸藩はこの
尊攘派志士たちの挙兵に驚き、藩兵が鎮圧に出動
してきた。
 姫路藩・出石藩・豊岡藩らの藩軍が但馬に向か
っているとの報告を受けた平野らは、軍議を開き
善後策を議論した。
 軍議の内容は、次第に戦況不利を悟って、解散
する意見が濃厚となり、13日夜になると、兵団の
主将・沢宣嘉がまず、但馬を脱し四国へと逃れ、
そのまま安全地帯である長州藩へと戻った。
 平野国臣は鳥取へと向かったが途中で捕縛され
、京都六角獄に送還され、その翌年に起きた禁門
の変の際に混乱に乗じて、脱走させないために斬
首された。

 美玉三平は、逃亡の途中で農兵に見つかり、斬殺
された。沢宣嘉の護衛兵となっていた奇兵隊士・南
八郎ら13名は、妙見山(みょうけんざん)に立てこも
り、討伐部隊と一戦交える覚悟を決めていたが、
味方の農兵らの裏切りにあい、死地を悟って、全員
自刃して果てた。

 こうして、生野の乱は幕を閉じたが、強硬派尊攘
の志士たちには、恥の上塗りのような失敗劇で
あった。一矢報いることもできず、国内の秩序を
むやみに乱した厄介者扱いを朝廷や幕藩たちから
受けた。
 この失敗を教訓として活かして、別の思案をして
いれば、この後に起きる禁門の変の悲劇もなかった
ことだろう。強硬派尊攘の志士たちは、京都に居
場所を求めた。京都を中心に尊攘思想を国政の
主軸とすることだけが念頭にあった。
 それは、天皇を頂き、大義名分の名の下に、権勢
を思う存分振るえた栄光の時を忘れることができな
かったからだ。天皇を頂いた彼らは、無敵だった
のだ。逆らう者はなく、全ては自分の意の如く、成
って行ったことへの甘美さを忘れられなかったこと
が京都奪還の夢に固執したのであった。

 その夢見心地の気分を再度求めた強硬派尊攘
の志士たちを高杉晋作は、冷淡に見ていた。
幕府も会津藩も薩摩藩もみな、甘美な夢見心地を
抱くことはなかった。大義名分という名の銘酒に
酔いしれたことが強硬派尊攘たちの国粋思想を
腐らせてしまった。
 国内の秩序をもって、攘夷を成すということに強硬
派尊攘の人々は、どうしても納得できなかった。
それは、下剋上という思想を抱き、出世の野望に
意思を向かせてしまったことにある。
国粋のためという偽名を借りた繁栄の仕方が、結局
は身の破滅をもたらすことを歴史は教えている。
 その意味で、天誅組、生野の乱の失敗は、実利の
ある行動でなければ、誰もついていかないということ
を示している。彼らの失敗は、秩序だった組織統制
によって、成されるべき行動を気勢だけに頼って、
行おうとしたことに敗因がある。
 この教訓は、その後に起こる戊辰戦争の時にしっ
かりと活かされるのであった。組織統制をしっかり
とし、身分の低い出身であっても、規律をしっかりと
重んじた行動をすることで、新政府は正規の政権
へと発展できたのである。
 天誅組が五条の地で五条政権を樹立し、気勢を
挙げて、周囲の人々の賛同を求めても、結局は
無計画で無秩序なならず者集団としか見てもらえ
なかったこととから見ても、いかに秩序だった組織
作りが大事かをその後の歴史に影響を残している
のである。





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