池田屋事件



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事件前の洛中情勢


 池田屋事件が勃発した時期の京都の情勢は、
強硬派尊攘の志士たちと公武合体派、佐幕派の
志士たちとがにらみ合う緊迫した空気が漂う中で
起こった。
 池田屋事件が起こる前年の1863年(文政3年)8
月18日に起きた政変で、それまで京都を我が物
顏で闊歩していた強硬派尊攘の志士たちが、公武
合体派の巻き返しにあい、わずか一日で情勢を
ひっくり返されてしまった。
 勅命により、洛中を追われることとなった強硬派
尊攘の者たちは、長州藩へと落ち延びていった。
その後の京都を支配したのは、公武合体派、佐幕
派の人たちで、天誅事件など物騒な出来事が、
ようやくなくなり、一時の秩序と平穏を取り戻して
いた。
 しかし、強硬派尊攘たちの京都奪還の夢は、捨て
切れず、京都の裏舞台では、強硬派尊攘の志士た
ちが、身を潜めて、何事か謀略事を議論していた。
 この強硬派尊攘の志士たちの不穏な動きを察知
した幕府は、見廻組や新選組を設置して、京都の
警備に当たらせていた。
 その警戒をしていた最中に池田屋事件が起きた
のである。強硬派尊攘の志士たちが計画していた
京都を火の海にする暴挙を食い止めた新選組の
名は瞬く間に有名を馳せ、新選組の親玉である京
都守護職の松平容保は、朝廷より功労を賞賛され
、一躍、人気を集めた。

 事件の発端は、1864年(元治元年)6月1日に、強
硬派尊攘の宮部鼎蔵(みやべていぞう)の従者が
新選組に捕縛されたことに始まる。
 肥後藩士・宮部鼎蔵は、長州の吉田松陰の親友
で、兵法術を収めた尊攘の志士であった。
強硬派尊攘の人々が政局を握っていた1863年(文
久3年)に出された勅諚で設置された新兵の総督に
兵法に明るい宮部が就くなど、強硬派尊攘の中心
人物の一人だった。

 8・18の政変で、京都を追われた宮部は、三条
実美ら七卿落ちとともに長州へと下ったが、その後
、長州藩の立場を説明して、理解と協力を仰ごうと
北陸の加賀藩へ出向いた。
 その帰りに京都に寄って、尊攘派同志との連絡を
取っている時に従者が新選組に捕縛されたのだ
った。宮部の従者は、宮部ら強硬派尊攘の志士た
ちが不穏な動きをしていることを聞き出したが、小者
だったため、詳細な情報は得られなかった。
 ただ、宮部が京都商人である枡屋喜右衛門(ます
やきうえもん)の屋敷に出入りしているということは
つかんだ。
 枡屋喜右衛門の身辺を調査するようになった新選
組は、ますます怪しい行動を取る枡屋に疑惑の念を
深め、ついに6月5日早朝、新選組は四条木屋町で
武具・古道具・薪炭などを商う枡屋の屋敷に踏み込
んだ。
 枡屋喜右衛門は捕らえられ、壬生の屯所に連行
され、”鬼の歳三”と世間から恐れられた土方歳三
による激しい拷問を受けた。さすがに耐え切れなく
なった喜右衛門は、その日のうちに知っていること
を全て白状した。
 それによると、喜右衛門は偽名で、実名は古高
俊太郎(こだかしゅんたろう)という近江の郷士だ
という。古高の話では、同志たちが祇園祭りの夜
に市中に火を放ち、混乱に乗じて、この時、宮中に
参内するであろう京都守護職の松平容保と中川宮
朝彦親王を襲撃し、討ち取り、そのまま宮中に押し
入って、天皇を長州に移すという計画を立てている
という。

 事態が容易ならざるものと察した新選組は、事の
てん末を京都守護職と京都所司代に報告し、一方
で新選組は隊士総出で市中に潜む強硬派尊攘の
志士たちを探査することにした。

 古高が捕縛されたことで、挙兵を計画していた同
志たちは、その善後策を話し合うため、三条小橋
の西にある小さな旅籠(はたご)である池田屋に
集合した。
 集まった同志は、計画実行の主格・宮部鼎蔵、
肥後藩士・松田重助(まつだじゅうすけ)、長州藩
士・吉田稔麿(よしだとしまろ)、土佐藩士・望月
亀弥太(もちづきかめやた)らニ十数名を数えた。
 長州藩士・桂小五郎もこの時、一度は池田屋に
顔を出したが、同志たちがまだ集まっていないのを
見て、暇つぶしのためにブラリと外に出かけ、討ち
入りの難を逃れている。

 新選組は、この宮部らの会合を事前に把握し、
会合場所を探索することに全力を挙げることに
した。だが、この時の新選組の隊員数は80名に
満たない少数で、しかも折からの流行カゼで半分
の隊士は寝込んでいた。
 そのため、探索にあたった隊員数は、わずか34名
であり、これでは、効率よく探索できないとして、会
津藩・桑名藩に探索の協力要請を出していた。
だが、いつまでたっても両藩の藩士たちが来ない
ので、仕方なく新選組34名だけで探索を開始した。

 探索開始時刻を午後8時と予定していたが、会津
藩・桑名藩がこなかったため、午後10時を過ぎて、
探索開始となった。新選組は探索部隊を近藤隊と
土方隊の二手に分けて、京都中の旅籠や料亭を片
っ端から探索した。

 探索を開始してまもなくして、どうも池田屋が怪し
いということがわかった近藤隊は、土方隊の到着を
待たずにわずか5名で斬り込むことにした。
 池田屋の中は間取りが手狭にできており、間口が
三間半、奥行きが15間、建坪80坪で、客室の畳数
は60畳であった。天井は低く、頭がつかえそうな
ほどで、思いっきり刀を振り回せる広さはなかった。
会合は二階で行われており、二階へ上る階段も
狭く急にできていて、上部には欄間があって、刀で
斬り合うには、不向きな造りとなっていた。

 それでも討ち入りによる激しい斬り合いは壮絶を
極め、新選組隊士・永倉新八の刀は折れ、沖田
総師の刀は帽子折れ、藤堂平助の刀の刃はささら
のようになり、近藤の養子・周平は槍を斬り折られ
たという。
 武器が疲弊して使い物にならなくなるほど、激しく
斬り結んだ修羅場に、土方歳三が率いる隊が駆け
つけてきたのは午後11時半ごろだったという。
 午前0時を過ぎる頃には、数千の会津・桑名両藩
の兵団が現場に到着し、一帯を包囲し、逃亡者の
確保に全力を挙げた。
 近藤たちが討ち入りを終え、ようやく壬生の屯所に
引き揚げたのは、日がすっかり昇った正午ごろで
あったという。

 池田屋事件で強硬派尊攘の志士たちの被害は、
使者十六名、捕縛者ニ十数名、脱出10名であった。
池田屋内で死んだのは、挙兵を計画した主格の宮
部鼎蔵、土佐の北添佶摩(きたぞえきつま)、大高
又次郎、伊藤弘長、福岡祐次郎の四人だけであ
った。
 長州の吉田稔麿や土佐の望月亀弥太などは、
斬り合いでは新選組には、適わないと見るや二階
から飛び降り、池田屋を包囲していた会津・桑名の
両藩兵の追撃を交わし、池田屋から約400mほど
離れた場所にある長州藩邸に逃げ込もうとした。
 しかし、藩邸の門はすでに閉まっており、逃げ場
に窮した彼らは、藩邸脇で自刃して果てた。

 桂小五郎はこの騒ぎを聞いて、池田屋に向かった
が会津・桑名の両藩兵が池田屋を包囲しているの
を見ると近くの対馬藩邸に逃げ込んで危機を脱して
いる。それを知らない長州藩士・杉山松助は、長州
藩邸から飛び出し、小五郎の身を案じて池田屋に
向かったところを斬られた。
 松田重助は小刀だけを帯びて、裏座敷で涼んで
いたところを捕縛されたが、明け方になってスキを
見て脱出し、逃亡を図ったが会津藩兵に見つかり
、その場で斬られた。

 池田屋にいた者たちの大半は、討ち入って来た
新選組の腕前を恐れ、闘わずに逃げ出し、多くの
者が長州藩邸に逃れて、危機を脱していた。
 事件後、新選組が討ち入った戦果は、打留め七人
、負傷者四人、召捕り二人であった。残りの尊攘派
志士たちを討ったのは、池田屋の外にいた会津・
桑名両藩兵であった。
 新選組の被害は、死者三名で、奥沢栄助は即死、
安藤早太郎、新田革左衛門は重傷を負い、後日
死亡している。藤堂平助は額を斬られ重傷し、永倉
新八は親指を斬られた。

 この新選組の活躍で、公武合体派と佐幕派は絶
頂期に入る。池田屋事件の翌年7月に起きた禁門
の変は、池田屋事件で長州藩士を斬られたことへ
の復讐の意味も含まれていた。
 その意味で強硬派尊攘で京都奪還の夢を諦め切
れない最後の志士たちが禁門の変へと向かわせる
誘発剤となった事件であったことは確かである。
 新選組によって、公武合体政権は促進され、佐幕
派は幕末最後の脚光を浴びることとなった。




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