禁門の変



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長州藩強硬派尊攘たちの最終決戦!


 大和行幸を決定させ、強硬派尊攘の志士たちが
栄華を誇ったのは、1863年(文久3年)8月17日まで
であった。その翌日には、8・18の政変が勃発し、
公武合体派、佐幕派が政権を奪取し、強硬派尊攘
の人々は、京都の地を強制退去させられた。
 政権失脚を成した七卿とともに長州藩強硬派尊攘
の藩士たちは、郷里を目指して落ちて行った。
強硬派尊攘の公卿や長州藩士が京都を去り、長州
へ向かった後の畿内は、彼らの仲間である強硬派
尊攘の志士たちの武装蜂起でにぎわった。
 天誅組や生野の乱では、強硬派尊攘の志士たち
の悲壮感漂う無謀な兵乱を起こし、結局は、幕府・
諸藩によって、叩き潰されてしまった。
 この同志たちの悲運の死を見ながら、耐え忍んで
いたのが長州藩強硬派尊攘の藩士たちだった。
彼らは、京都奪還を未だ諦めず、公武合体派と佐幕
派の者たちを討ち滅ぼそうと執念を燃やしていた。
 折りしも、関東で水戸藩の強硬派尊攘の天狗党
が挙兵し、筑波山で幕府・諸藩の軍勢と戦っている
時期、京都奪還のゲリラ作戦を計画していた長州藩
士・吉田稔麿らが、池田屋にて新選組・会津藩らに
討たれた報せが長州藩に届いた。

 長州藩は、もはやゲリラ作戦で京都奪還は不可能
と判断し、藩兵を率い、武威をもって失地回復を図
った。いわば、水戸藩の天狗党のように強硬に武装
蜂起を成し、正々堂々と幕府・佐幕派諸藩と戦おう
としたのである。
 武威にて京都奪還を主張したのは、七卿落ちで
長州にいた三条実美ら七卿と強硬派尊攘の扇動者
・真木和泉、長州藩士では遊撃隊総督の来島又兵
衛(きじままたべえ)、久坂玄瑞らであった。
 これに対して、高杉晋作や桂小五郎は、京都奪還
に固執する狭い尊攘実行を非難し、もっと現実的な
富国強兵策を藩内に実施して、攘夷を単独で実行
することを主張した。

 だが、高杉らの意見を聞き入れない来島らは、池
田屋事件で傷付けられた藩の威厳を回復させるべ
く、京都へ向けて藩兵を率いて出陣した。
 来島らは攘夷実行のために結成された集義隊や
八幡隊など諸隊を率いて、上洛の途についた。
そして、京都に近い伏見・嵯峨・山崎方面に布陣し
、幕府・佐幕派諸藩軍の出方を見た。

 一方、幕府は朝廷から禁裏守衛の任を受けてい
た一橋慶喜を中心に幕府軍や会津藩ら佐幕派諸藩
の軍勢とともに京都市内に集結し、防衛態勢を整
えた。
 緊迫した空気が京都中を支配していたが、そんな
折、慶喜に招かれて上洛していた佐久間象山が
強硬派尊攘の志士に暗殺された。しかもその時に
書かれた斬奸状(ざんかんじょう)には、会津・彦根
両藩を非難し、天皇を彦根へ遷都する謀略を企て
ている逆臣であると記していたため、幕府側は憤り
、長州藩側も幕府が朝廷を遷都させて、操ろうとして
いると憤慨した。両者は一触即発の気勢を表し、も
はや洛中での戦争は避けられない状況となった。

 1864年(元治元年)7月19日未明、伏見に布陣して
いた長州軍がにわかに伏見街道を進軍して、大垣
・彦根両藩の軍勢と遭遇し、ここに禁門の変の戦端
が開かれた。
 伏見方面から進軍してきた長州軍を率いていた
のは、長州藩家老・福原越後(ふくはらえちご)で
あったが、戦いは大垣藩軍の優勢で展開され、
ついには部隊総督の福原が負傷したため、長州軍
は撤退を余儀なくされた。
敗走する福原の部隊は、伏見街道と並行する西方
の竹田街道を進もうとしたが、彦根・会津両藩兵に
行く手を阻まれ、仕方なく山崎方面へと敗走した。

伏見方面の福原部隊が突入を開始したことを知っ
た嵯峨方面の天竜寺に布陣する長州軍部隊は、
部隊を二手に分けて、蛤御門を目指した。
嵯峨方面の二部隊は、長州藩家老・国司信濃(くに
ししなの)と来島又兵衛が率いた。彼らが率いる部
隊は、蛤御門を守る会津藩軍と白兵戦を展開し、
一時は、会津藩軍の防衛線を突破し、御所内にま
で進軍したが、新手の薩摩・桑名両藩兵から反撃
され、撃滅した。
 この蛤御門の戦闘が最も激しく、禁門の変という
この戦乱の名称も別名を蛤御門の変としているくら
いである。

 ついで、山崎方面に布陣していた長州軍は、堺町
門に進軍し、前関白・鷹司政通の屋敷を占拠した。
この山崎方面の長州軍を率いていたのは、真木和
泉と久坂玄瑞であった。
 真木和泉と久坂玄瑞があえて前関白・鷹司政通
の屋敷を占拠したかというと、前年まで強硬派尊攘
が政局の主導権を握っていた時に真木、久坂の両
者が鷹司政通と親交があったからだった。
 そして、真木、久坂の思惑は、鷹司政通の協力を
仰いで、孝明天皇への弁明をしてもらおうというもの
だった。しかし、鷹司政通とて、もはや公武合体派
・佐幕派の公卿が政局を奪取し、孝明天皇自身が
強硬派尊攘の思想を受け入れないということを指摘
して、真木、久坂の訴えを断った。
 鷹司邸を二重三重に取り囲んだ幕府・諸藩軍が
砲撃を開始してきたため、久坂はもはや死地を悟り
、屋敷内にて自刃して果て、再起を願う真木はかろ
うじて、屋敷を脱出し、天王山へと向かった。
その後、真木は天王山にて善後策を思案していた
が会津・桑名藩兵、新選組らに包囲され、悲壮な
嘆きを吐いて、自刃して果てた。

 天王山方面から宮廷を目指した長州軍は、各方
面の長州軍が次々と敗北した報せを受け、戦わず
に敗走した。天王山方面の長州軍を率いたのは、
長州藩家老・益田彈正であった。

来島又兵衛、入江九一らも敗死し、長州藩強硬派
尊攘の志士たちはほとんど全てが討ち果たされた。
かろうじて長州藩に生還できた三家老も、後に責任
を取らされ、切腹して果てた。

 こうして、禁門の変はわずか一日足らずで終結し
、国内の動揺を最小限に止めることに成功した。
しかし、洛中は三日三晩、燃え続け、2万8千戸が焼
失したと伝えられている。焼け出された民衆が河原
や街道にあふれ返り、悲惨極まりない情景を作り出
したと記録に残っている。

 この乱戦の最中に六角獄につながれていた国事
犯30人以上が、混乱に乗じて逃亡させないために
斬首された。

 さしずめ宮廷争奪戦となった禁門の変は、天皇・
朝廷の機関が国政を左右する重要な機関としての
位置付けを決定させた歴史の転換点となった。
 孝明天皇は、長州藩の暴挙を非難し、会津藩ら
宮中を守った佐幕派を大いに賞賛し、改めて孝明
天皇が佐幕派であることを天下に証明させた。

 その後、孝明天皇は長州藩追討の勅命を発し、
幕府は第一次征長を実施するのであった。
この第一次征長が成る前に長州藩は、四国連合
艦隊の報復攻撃を受ける下関戦争を起こす。
この下関戦争でも大敗を喫した長州藩は、第一次
征長に対する防衛力はなく、戦わずして幕府に平伏
し、恭順するという屈辱を味わうことと成る。
 この畳み掛けるような国内外からの圧力に屈した
かに見えた長州藩は、不死鳥のように復活するの
だが、復活した長州藩の強さは、尋常ではない強さ
を誇った。
 これは何度も叩かれて、鋼(はがね)のように強さ
を増したかのようで、思想と軍制の転換が成され、
国内で一番の洗練された思想と軍制を整えること
になったのである。
 その意味で、長州藩のもがき苦しんだ時期に起こ
した兵乱は、超人の境地に達するための一種の修
業のような過程となったのである。
長州藩が禁門の兵乱で失ったものは余りにも多い
が、それによって得た教訓は、誰にも負けない一番
洗練された思想と意志の強さをもたらしてくれたの
である。





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