下関戦争



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攘夷実行とその代償


 長州藩は、強硬派尊攘の中心的存在となり、京
都で尊攘の思想を流布し、公卿へも盛んに交渉し
、長州の尊攘に同調した公卿の三条実美らととも
に朝廷内の主導権を奪取した。
 刃向かう者は天誅によって、脅迫し、反対者を
押さえ込み、ついには大和行幸を決定させ、天皇
新征が実行へと移されることと成った。
1863年(文久3年)5月10日をもって、攘夷の期日
とすることを幕府に認めさせた長州藩は、その期
日当日に下関海峡を通るアメリカ商船・ペムブロ
ーグ号を砲撃した。
 こうして、長州藩は強硬派尊攘の先駆けを成し、
長州藩領での攘夷実行にあわせて、朝廷をも巻き
込んで、全面攘夷戦を国内に展開しようとした。

 攘夷戦の緒戦を勝利で飾った長州藩は、次々と
下関海峡を通過しようとする外国船に向けて、砲
弾をぶっ放した。アメリカ商船砲撃後、フランス軍
艦・キンシャン号、オランダ軍艦メジュサ号へ不意
打ち同然の砲撃を成し、藩兵は気勢を挙げた。

 これに対し、不意打ちの砲撃を受けた欧米列強
とてこのまま黙ってはいない。翌月には早速アメ
リカ軍艦・ワイオミング号が長州藩へ報復攻撃を
開始し、亀山砲台を猛撃して破壊した。
ついで、長州藩軍艦・庚申丸(こうしんまる)・壬戌
丸(じんじゅつまる)を撃沈し、さらに癸亥丸(きが
いまる)も撃破し、多大な被害を長州藩に与えて、
意気揚々と引き揚げていった。
 その四日後には、爪あとさめぬ長州藩にフランス
軍艦二隻が報復攻撃を開始し、猛烈な砲撃後に
陸戦隊を上陸させ、諸砲台を占拠・破壊し、近隣
の村落も焼き払って、長州藩領を我が物顏で闊歩
して引き揚げていった。
 長州藩も必死の反撃を行ったが、長州藩が誇る
正規軍は成す術もなく、敗退した。このだらしなさ
に民衆から非難を受けた長州藩は、打開策を知恵
者・高杉晋作に求め、晋作の考案した民兵組織の
結成を許可した。
 高杉は民兵組織の奇兵隊ら諸隊を次々と作り上
げ、西洋戦術による訓練を行った。考えてみれば
、武士の割合は全人口の一割にも満たないのだ
から、人口の大半を占める民衆から精鋭の者を
募った方が、より頑強な精鋭部隊を作れるのは
確かであった。

 この高杉晋作による実力本位の軍隊が結成され
、新たな戦力が長州藩に加わったが、それでも、
欧米列強が保持する兵器などの差は歴然として
おり、1864年(元治元年)、イギリス・フランス・アメ
リカ・オランダの四カ国が連合して、長州藩に攻撃
を仕掛けてきた。
 この時、奇兵隊は結成されて1年半ほど経過して
いたが、まだまだ未熟さが残り、まともな応戦は
できなかった。
 欧米四カ国は、幕府との間に定めた条約にて、
既存の航路を使用できなくした長州藩は、既存財
産の保証を侵略しているとして、報復攻撃するこ
とにしたのである。徹底的に長州藩を痛めつけて、
攘夷の思想を打ち砕いてやろうというのも目的の
一つであった。

 この長州藩の危機を知った伊藤博文と井上馨
は、イギリスの留学先から急きょ帰国し、6月には
藩庁への説得工作を試みたが、聞き入れられな
かった。しかし、7月に入ると禁門の変で強硬派
尊攘の長州藩士が壊滅すると藩内では、国内で
の攘夷支持者を取り付けなかったことで、孤立無
援の状況となり、大混乱をきたした。
 このまま、欧米列強と単独で戦うことは不可能と
判断した長州藩は、急きょ戦争回避を画策して、
伊藤・井上を交渉の使者に立てたが、時すでに
遅く、四国連合艦隊が長州藩を猛撃してきた。
 四国連合艦隊の主力はイギリスで、軍艦17隻、
総計288砲門を数え、兵員は5000名の精鋭部隊
であった。これとは別にイギリスは、横浜居留地
の防衛のために軍艦3隻を配備し、陸兵部隊1400
名を駐屯させていた。

 四国連合艦隊の攻撃は、8月5日午後4時10分
に始まり、わずか10分間程度で数百発が発射さ
れたという。この連射砲撃で、砲撃開始後1時間
ほどで長州側の主要な砲台はほぼ壊滅状態と
化した。この戦果を見て、列国は陸戦隊を上陸さ
せ、砲台の徹底破壊や砲弾・弾薬を爆破処分し、
近くの町をも攻撃して、大いに気勢を挙げた。
 戦闘三日目以降になると長州藩の抵抗はほとん
どなくなり、四日目の8月8日には、講和を申し立て
る正使に抜擢された高杉晋作が家老・宍戸刑馬と
偽称して、四国連合との交渉にあたった。

 威風堂々と構えた高杉は、少しも敗北したという
態度を見せず、終始対当な立ち居振舞いをして、
欧米列強の提示した講和条件のうち、長州藩に
損益となる項目は拒否して通した。
 欧米列強は、賠償金300万ドルという巨額を長州
藩に提示したが、高杉は攘夷を命じたのは幕府で
あるから賠償請求は幕府に述べよと責任回避を
した。
この一連の戦争で、イギリスは長州の誇らしい態
度に共感を覚え、幕府よりも付き合いやすいと
して、以後は長州藩へ肩入れするようになった。
長州藩も無理な攘夷は、机上の空論と判断し、
戦後は、イギリスから徹底的に技能の修得を推し
進め、富国強兵策を取り、目的を国家統一するこ
とへと転換させた。
 天皇を中心とする国家統一が、欧米列強の国体
と同じくすることにつながることを認知したことから
、長州藩は、余分な政権機関となった幕府を倒す
ことへと思想を発展させたのである。





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