第一次長州征伐



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戦火を避けた平和的解決


 第一次長州征伐は、幕府権勢の回復を目指す
幕府にとって、願ってもない機会となった。
禁門の変で長州藩は禁裏に銃弾を撃ち込み、洛
中を大混乱に陥れた。このことに激怒する孝明天
皇は、長州藩追討の勅命を発した。朝敵となった
長州藩を討つのはもちろん、幕府であったが、こ
の機会を逃さずに幕府権勢を回復しようと幕臣は
考えた。
 幕府はすぐさま21藩に対して出兵準備を命じ、
幕府も翌8月に将軍・家茂自らが軍勢を率いて、
進発することを布告した。
 幕府権勢の盛り返し政策は、さらに進められ、
9月には1862年(文久2年)から緩和されていた
参勤交代・妻子の江戸在住制度を復旧させると
して、諸藩への圧力を強めた。

 しかし、すでに政局の中心は京都に移っており、
江戸にいる幕臣たちの考えは時局を逸していた。
時代錯誤はなはだしい幕政に対して、諸藩はだれ
もまともには受け止めない。
 将軍自らの進発と聞いても、だれも恐れ入る者
も奮い立つ者もいなかった。諸藩の藩財政は極端
に悪化しており、戦争だの参勤だのと出費のことを
考えない政策に諸藩は腹を立てていた。
 幕政への反発心を増やす結果を招き、参勤も
妻子差出もいろいろな理由にかこつけて、諸藩は
幕府の命令に応じなかった。
 諸藩は出兵だけは応じたものの、莫大な費用が
かかり、幕府への不満を一層募らせた。また、いざ
出陣をしても、戦争で血を流すのは御免こうむる
とみな、そればかりを考えていた。

 また、諸藩はせっかく権勢が衰えてきた幕府が
長州征伐を契機にまた復権を果たして、諸藩の
弾圧に乗り出すことを恐れた。そのため、長州藩
を取り潰すことはせず、降伏させてそのままの現
状維持をすべきと考える諸藩も多かった。

 長州藩に同情する藩も多く、芸州(げいしゅう※
広島)や因州(いんしゅう※鳥取)の藩などは、攘
夷討ちを一藩だけで成した長州を助けもせずに
攻め滅ぼそうとすることは、仁後に落ちる行為だ
と主張し、諸藩の意見は統一を見なかった。

 幕府が征長軍総督を尾張藩主・徳川慶勝に任命
したものの、当の本人は、混迷極まりない時勢を
見定めて、再三固辞した。それでも幕府は強引に
総督に就けようとしたものだから、慶勝も仕方なく
、総督となるからには、全権委任を条件とし、幕府
上層部の指図は受けない方針を打った。
 こうして、幕府は復権目的に諸藩に大号令を発し
たものの不評をかった上に、諸藩はいちいち幕命
に反発したため、幕府の権勢は改めて失墜してい
ることを人々に露呈する結果となった。

 諸藩たちの不平不満を抱えたまま、ようやく11月
に入って、征長軍は一応の組織を成し、長州藩を
包囲する態勢を整えた。
 征長軍総督には、徳川慶勝が就き、副総督には
越前藩主・松平茂昭(まつだいらもちあき)が就き、
参加藩数は35藩、総勢15万の大所帯であった。

 一方、薩摩藩では征長軍出撃の年のはじめに
島流しの刑を許され、帰藩していた。そして、今回
の征長軍への参加となり、総督参謀という高位の
任を受けた。
 西郷は、はじめ宿敵長州を討滅できるとあって、
大いに喜び、即座に決戦に及び、長州藩を改易、
もしくは東国の偏狭の地にでも転封させるべきと
考えていた。
 だが、はじめの気勢とは裏腹に、政局をつぶさに
見聞きすると幕府権勢の盛り返しにつながること
がわかると幕権強化を成すことに戸惑いを感じ、
長州藩への明確な処遇を決めかねてしまった。

 そんな西郷に未来の展望を開けさせた大人物
が現れる。大坂城で幕府の軍艦奉行を務めてい
た勝海舟である。西郷はこの時、初めて勝海舟と
対面し、日本の未来像を教えられた。
 幕臣である勝は、「幕府はもうだめです」と言い
切り、幕政批判と共和政治(列侯会盟)を説き、
すっかり西郷を啓発させた。特に勝が説く海外情
勢を踏まえた広い視野で日本国政を見る考え方
には、薩摩一藩にこだわる西郷の心を大いに刷新
させた。
 当時の誰もが自分の藩のことだけを考え、日本
の行く末を明確に展望できずにいた。しかし、藩の
枠組みを超えた国家理念で国政を考えていかなく
ては、欧米列強にますます遅れを取る事になり、
ついには収拾のつかない植民地支配を受けてし
まうのは必至であった。
 欧米列強が国家統一を完全に成し、その上で、
海外進出を果たしていることから見ても、国内統治
の主導権を争ってばかりいる国が、欧米列強に
勝るはずはなかったのである。
 勝の大海のような広い視野から政局の行く末を
見定めることが西郷のような革命家には必要なの
だとはっきりと啓発させたことで、事態は倒幕へと
向かっていった。
 西郷は長州藩への処罰を軽くし、戦わずに征伐
戦を終らせることを考えるようになった。このまま
国内で同士討ちをすることはなによりも愚策だと
西郷は感じた。それよりもどうやって、この地方
統治を認めている幕藩体制を終らせ、国家統一を
成し得るのか?とそればかりを考えるようになって
いた。

 西郷は征長軍の方針として「戦わずして勝つ」こ
とを提言し、血を流す戦いを嫌がる諸藩は、これに
いちもにもなく同調した。征長軍に異論なく、長州
藩へこのことが伝わると、長州藩もこれに応じ、藩
論統一を進めた。
 長州藩の藩論は二派に分かれた。徹底的に幕
府と戦うと主張する正義派と幕府に徹底恭順する
と主張する俗論派である。
 藩論はこの二派の間で激化し、俗論派の椋梨
藤太(むくなしとうた)など萩を拠点とする門閥出身
たちは「純一恭順」を主張し、正義派では表向きは
恭順を装い、裏では戦闘態勢を堅持するという「武
備恭順」を主張した。
 この二派の激論は、正義派の井上聞多が俗論
派に襲撃され、重傷を負うなど俗論派の攻勢勝ち
となり、藩論は俗論派の徹底恭順に決した。
 長州藩は征長軍に降伏し、謝罪の姿勢を見せる
ため、禁門の変で長州藩軍を率いて宮廷を攻撃
した三家老を切腹とし、四参謀は斬首された。
 この長州藩の恭順姿勢を見届けた征長軍は、
全軍撤退を決定し、これにて第一次長州征伐は
終わりを告げた。だが、この攻め滅ぼさずに終戦
したことには、幕府首脳部が大いに不満し、憤慨
した。京都にて幕政を取り仕切っていた、一橋慶
喜でさえ、この甘い処置に西郷にたぶらかされた
慶勝を非難している。

 この第一次征長で長州藩は、幕府に頭を下げて
平謝りするという屈辱的な結果とはなったが、維新
達成に必要となる長州藩が存続できたことは、
日本近代化にとっては、まさに幸運であった。
 そして、西郷が啓発し、国家統一ということを成
す重要性を認知し、その後の行動は、みな統一国
家の誕生を最短でために向けられていったことは
、歴史的意義が深い。





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