第一回 勝と西郷の会見



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戦火を避けた平和的解決


 寺田屋の過激派尊攘の薩摩藩士たちを説得す
る試みに失敗した西郷が久光の厳命を破ったかど
で沖永良部島(おきのえらぶじま)へ流罪となり、
一時、歴史の表舞台から姿を消す。

 それもつかの間で1864年(元治元年)2月28日に
長い牢獄生活から開放され、鹿児島へと返り咲い
た。時代は一個の英雄を孤島に置きざりにできる
ほど安穏とはしていられなかった。
 3月11日には鹿児島から大坂へと赴き、伏見の
寺田屋で大久保利通らの歓迎を受けた。
 藩邸に入った西郷は、軍賦役兼諸藩応接掛を
命ぜられ、実質的に薩摩藩の全権者となった。
 西郷がこの重職に着任して以来、池田屋事件、
禁門の変、第一次長州征伐が勃発する。
激動の時代の真っ只中にあって、西郷が初めて
勝海舟に会うのは9月11日であった。
 当時の勝は、幕府軍艦奉行という重職にあり、
神戸海軍操練所の頭取を務め、幕政改革を先駆
する立場にあった。

 勝が実質的に運営者となっていた神戸海軍操
練所は、土佐藩脱藩の坂本龍馬が塾頭となって
おり、何かと操練所のことで奔走していた。その
坂本龍馬が西郷を周旋し、勝と会談させた。
 勝は、西郷に会うなり、「今の役人は世間知らず
で時勢遅れがはなはだしい。たまたま禁門の変で
幕軍が勝ったものだから、幕府復権がかなったと
有頂天になり、すっかり天下泰平になったと思っ
ている。
 それでまたもや問題が起こると、責任逃れに精
を出して、一向に問題解決には消極的である。
そんなこっぱ役人をいくら退治してもきりがなく、
また諸藩が協力して幕政改革をやろうとしても、
意見は闇から闇へとほうむられて真剣に取り上げ
られることはない。」
 勝はこのように西郷に幕府の腐りきった現状を
述べ、幕府はもはや回復不可能な組織であると
さじを投げて見放した言い方をした。
 これには西郷も驚き、まさか幕臣から倒幕論を
聞くとは思ってもみなかった。西郷自身も勝に会う
までは、幕府に強い態度で諫言し、幕政改革を
成すことを目指すいわば、諫幕論(かんばくろん)
の考えを持っていた。
 しかし、勝はそれを完全に実現不可能と述べ、
幕府支配の世の中の終焉を予見する。
西郷は勝に感化されながらも、倒幕論のことは
置いて、外国艦隊が大坂湾にやってきて開国を
迫った時にはどうすべきかと尋ねた。
 すると勝は、外国人ももはや幕府をみくびってい
て、まともに相手にはしないだろうから、国内にい
る有能賢明な諸大名が諸問題を協議して国政を
決め、一致団結して対外政策を推し進めるべきと
述べた。
 特に現状の軍備力では諸外国にはかなわない
のだから、軍備増強を目指し、一方では積極的に
開国策を推進して、諸外国の進んだ技術や制度を
取り入れていくべきだと国政のあり方も語った。

 こうした勝の果断な理論は、西郷を大いに啓発
させるものがあった。西郷はこの時の衝撃を大久
保の手紙の中に書き報告している。
 ”実に驚き入り人物”と高評し、”どれだけ知略の
あるやら知れない”と勝の才覚の凄さに恐れ入っ
た感想を述べている。

 ”ひどくほれ申した”と西郷が勝を絶賛し、幕臣の
中にあって好感の持てる人物と西郷の目には映
った。このことが、後に二回目の会談となる江戸
無血開城の交渉で生きてくる。

 勝は西郷に初めて会った感想を次のように述べ
ている。「意見や議論は、俺の方が勝っていたよ。
しかし、天下の大事を負担する者は、はたして西
郷ではあるまいか、とまたひそかに恐れたよ。」
勝の目にも西郷の表には出てこない奥底に潜む
政略達人のオーラを感じていたのかも知れない。

 この会談で歴史は大いに変化した。西郷は当初
、薩摩藩が掲示する公武合体策に同意していたが
、勝との会見後に雄藩連合・武力倒幕という思想
に目覚めていく。
 そして、第一次長州征伐において、幕府軍の参
謀という重職に就いた西郷が長州を武力でねじ伏
せるのではなく、平和的な話し合いで決着をつけ
るという方針を取ったのも、勝から受けた影響が
主因となった。
 内戦を起こさず、早く国内を統一国家と成し、富
国強兵策を断行し、諸外国と競合できる国力の充
実を図るべきという積極的な開国策に開眼して
いる。





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