水戸藩改革を推進した会沢正志斉、藤田東湖ら は、天狗と呼ばれた。保守門閥派から学問を鼻に かけて、成り上がった者たちへの蔑視の意味が込 められている。 一方で天狗と呼ばれた改革派は、天狗のように 快活に物事を成し遂げる力量ある人物という好意 的な意味を持って、その呼称を歓迎した。 水戸藩は徳川斉昭が提唱する尊王攘夷の志を 受け継ぎ、将軍継嗣問題で一橋慶喜を就ける運 動を推進し、朝廷工作を盛んに行った。 だが、その結果、「戊午の密勅(ぼごのみっちょく) 」が発生すると藩は幕府への対応に苦慮する。 安政の大獄で水戸藩は弾圧を受けると尊攘派藩 士たちは追い詰められ、その威圧を打ち払うべく、 桜田門外の変を起こし、幕府に反逆した。 「幕府のご意見番」と称して、天下政策の監視役 を自負してきた水戸藩にとっては、立つ瀬がない 事件であった。 追い討ちをかけるようにして、徳川斉昭が没し、 水戸藩は重石を失い統制が取れなくなる。派閥 争いが激化する中、同志である長州藩尊攘の志 士たちが8・18の政変で京都を追われ、窮地に立 たされると、水戸藩内では、もはや少しの猶予もな いとばかりに強硬派尊攘の藩士たちが、決起 した。 彼らは筑波山にこもって、亡き斉昭公の意志を 継ぐと称して、「尊王攘夷」の旗を掲げた。1864年 (元治元年)3月のことであった。 この天狗党挙兵の首謀者は、水戸藩改革派の 中心人物だった藤田東湖の四男・藤田小四郎で あった。 小四郎は血気盛んな若者で、一気呵成の勢いを 表し、水戸藩強硬派尊攘の扇動者となった。 天狗党は、町奉行・田丸稲之衛門(たまるいなの えもん)を首領に担ぎ出し、山の知足院大御堂に 本陣を構えた。 天狗党挙兵当初の総勢は170名ほどで、天勇・ 竜勇・虎勇・地勇の諸隊を編成した。攘夷祈願を 込めようと4月はじめに日光東照宮に進軍し、いっ たん太平山によって、天狗党への参加を促す、 檄文を四方に飛ばした。 5月末に再び筑波山に戻ってきた時には、天狗 党に同調する同志が方々から集まり、総勢1000名 を越す大部隊となった。 この大盛況振りに天狗党首脳部は、大いに喜び 、「真の尊攘ここに結す!」と豪語して、ますます 意気盛んとなった。 この熱狂振りで天狗党に参加する者の中からは、 相当無茶な行動に出ることがしばしば起きた。 天狗党の指図に従わず、ぐずぐずと反抗する者は 、問答無用で一刀両断に処す剛胆さを見せた。 天狗党たちは気骨ある正義の志士と自負していた が、民衆は天狗のように恐ろしい暴徒と見なして いた。 天狗党の挙行に期待をかけた庄内藩士・清河 八郎は、水戸藩にやってきて、天狗党の傲慢な 態度に失望し、その無謀さを批判して帰ってしま った。清河が憤った天狗党の狂乱は、軍資金と 称して、豪商や豪農を襲撃して、財貨や食糧を 強奪するまでに発展し、この狂乱に対抗するため に自衛組織も作られたほどだった。 また、偽天狗党も続出し、水戸藩とその近隣は 穏やかならない事態を引き起こした。こうして、天 狗党は民衆から少なからず、支持を失う結果を招 き、諸藩からも好評を得なかった。 藤田小四郎を中心に決起した天狗党に対して、 改革派の重鎮・武田耕雲斎ははじめ、この挙兵を 批判し、自重論(じちょうろん)を説いて、天狗党の 暴挙を諌めた。 しかし、水戸藩内では、天狗党の挙兵を機に、 尊攘派の批判を一層強め、諸生党(しょせいとう) の市川三左衛門らが藩の執政を勤める武田を非 難し、ついには武田を藩政内から追放してしま った。 職を追われた武田は、仕方なく藤田らに合流し、 天狗党の総大将となって、藩内の保守派と対立す ることにした。 天狗党は水戸藩内へ向かい、さらに那珂湊(な かみなと)に出て、水戸藩軍と激戦となった。 水戸藩軍は幕府からの援軍も得ており、多勢に 無勢の状況となった。天狗党は水戸藩軍を打ち破 ることを諦め、西に血路を開き、包囲を抜け出た。 その後、久慈郡大子に赴き、善後策を練って、11 月1日に久慈を発して西上の途についた。 天狗党は、徳川斉昭の七男で英明の誉れが高 い一橋慶喜を頼ったのである。慶喜は当時、京都 にいて、禁裏守衛総督の任に就いていた。 天狗党はその慶喜に尊攘派の趣意を伝え、慶喜 を通して天皇・朝廷にも理解してもらおうと考えた のだ。 天狗党は上州路から信州路をたどり、一路京都 を目指したが、「中仙道・東海道・北国筋にある諸 藩は速やかに天狗党を討伐し、全員捕らえよ!」 との幕命が発せられ、沿道筋にはずらりと諸藩の 藩兵が天狗党の行く手をさえぎり、待ち構えて いた。 天狗党はこれら諸藩と激戦を経て、京都へたど り着かなくては、ならなかったが、沿道に布陣する 諸藩はみな、本気で天狗党を討伐しようとは考え ていなかった。間道や裏道を天狗党が通ってくれ さえすれば、藩の面目も立ち、戦闘による被害も なくて済むので、ほとんどの諸藩は、そのことを 願っていた。 中には、間道や裏道をわざわざ天狗党に教えて、 藩軍と天狗党が正面衝突しないように機転を利か せる藩もあったという。 こうして、最小限の戦闘だけで進軍しつづけた天 狗党だったが、それでも幕命への絶対忠誠と、藩 の面目にかけて、天狗党討伐に本気を出した藩 もあった。高崎藩などは、内山峠を越えて、信濃路 に入ろうとした天狗党をわざわざ追いかけてきて、 天狗党と合戦に及んでいる。 11月20日の昼頃、諏訪の和田峠で高島・松本両 藩の軍勢に迎撃を受けた天狗党は、夕暮れ時ま で激戦を続け、15名ほどの戦死者を出した。 この戦闘は、和田嶺合戦と呼ばれている。 天狗党は、幾度となく戦闘を経験し、かなりの戦 上手となっていた。それだけに幕府軍や諸藩軍は 天狗党にてこずった。戦闘馴れした軍勢とそうでな い軍勢では、大きな違いがあったのだ。 泰平の世になれた武士たちは、戦闘意欲さえわ かない弱腰が多く、死ぬ気で進軍する天狗党の気 迫に押されていた。 その後、天狗党は清内路(せいないじ)から馬籠 (まごめ)、中津川を経て、美濃路を西へ進み、谷 汲街道(たにぐみかいどう)から越前へ進軍した。 京都へ続く道には、大垣・彦根藩の軍勢が待ち 構えており、これらと激戦するのは、愚策と判断し たことから、北国街道へと進路を替えたのだ。 しかし、この選択は思わぬ強敵に行く手を阻ま れた。それは、北国の吹雪であった。北国街道に ある大野藩は天狗党に宿舎や食糧を与えないよう に民家を全て焼き払い、一種の兵糧攻めのような 戦術をとった。 このため、天狗党は雪の中で露営せざるを得な くなり、苦しい行軍を余儀なくされた。 62歳になる天狗党総大将・武田耕雲斎は、 雨あられ矢玉のなかはいとはねど 進みかねたる駒が嶺の雪 と歌い、冬将軍に苦しめられている心情を詠んだ。 疲労困ぱいしながら、天狗党はようやく越前新保 村まで着いたが、前方には加賀藩の軍勢が行く手 をさえぎっている。 天狗党は、西上の趣旨を加賀藩軍に伝え、進路 を開けてくれるよう頼んだが、加賀藩は「我々は、 一橋公の命令によって、陣を張っている。無理に 通るというのならば、一戦もやむなし」と天狗党に 伝えてきた。 この時点ではじめて天狗党は、頼みの綱として いた一橋慶喜が天狗党討伐の指揮官となり、諸藩 に討伐命令を下していたことを知った。 ついに進退窮まった天狗党は、やむなく、加賀藩 に降伏し、ようやく天狗党の兵乱は幕を閉じた。 天狗党は最後の願いとして、加賀藩の軍監・永原 甚七郎に一橋慶喜公へ天狗党一同の陳情書を 渡してくれるように頼み、永原はこれを承知した。 天狗党総勢833名は、三つの寺に分けられ、幕府 の処分が下るまで据え置かれた。 加賀藩は天狗党の主義主張に同調はしなかった が、命を落して武士道を貫こうとした姿勢は、評価 して、武士の情けとして彼らを丁重に扱ったという。 年が明けて、天狗党討伐から処分まで幕府から 一任されていた若年寄の田沼玄蕃頭が天狗党の 身柄を引き受けると扱いは一変した。 蝦夷から運ばれてくる肥料用のにしんなど魚を入 れておく蔵に彼らは閉じ込められ、取り調べや刑罰 が終るまで、入れられた。 刑罰の結果は、斬首350名、遠島137名、追放187 名という厳しい内容であった。15歳以下の少年11名 に関しては、寺の住職が命乞いをして、寺預けとい う処置で済んだ。 津軽海岸で斬首された武田・田丸・藤田・山国 兵部(天狗党の軍師)ら四名の首は塩漬けにされ、 故郷の水戸へと送られ、さらし首にされた。 天狗党の乱は、純粋な尊攘への想いを社会にぶ つけた結果、派生した兵乱であり、彼らの主張もそ れなりに時代の急務に則した決起であった。 しかし、秩序なく国内を乱す挙兵という形で主張を 通そうとしたことが多くの人々から不評をかうことと 成った。孝明天皇をはじめ朝廷内でも、秩序を乱す ことなく、既存の権勢である幕府や諸藩が中心と なって、攘夷実行を推し進めるべきとの考えが正論 となっていたことから、中央と地方との政局に対する 考え方は、大いに違っていたことになる。 この違いの差が、強硬派尊攘の志士たちを暴挙 に走らせ、その暴挙を支援したり、同調したりする 者をなくしたのである。 彼らは悲壮さをもって、憂国の思いを表さなくては ならなかったが、この失敗による教訓が後に倒幕を 目指した薩長に秩序を守りながら、国内統一を進め ていく方法へと向かわせたのである。 その意味で、国内を無秩序にかき乱しながら、主 義主張を通すことは、愚策と判断され、計画性を立 てて、規律正しい統制の取れた組織をもって、倒幕 や改革を推し進めていくことが大事とその後の志士 たちに悟らせた点で、天狗党の乱は大きな貢献を もたらしてくれたのである。 |