海軍操練所



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航海術師養成所、設立す!


 1863年(文久3年)4月、大阪湾北岸の防備状況
巡視のため、将軍・家茂を案内した軍艦奉行・勝海
舟は、かねてから幕府に上申していた海軍操練所
の設置を現地で説明し、これに感嘆した将軍は、
直々に操練所開設の許可を出した。
 こうして、勝は幕府の潤沢な資金を引き出し、海
軍操練所設置に成功すると自身はその頭取となっ
て、生徒を指導した。
塾頭には、坂本龍馬が成った。龍馬は前年に勝海
舟とはじめて面談し、勝のすぐれた考えに感服し、
以後は、勝を師匠と仰いで、この神戸海軍操練所
設立に奔走していた。
 操練所の建物は、1864年(元治元年)2月に完成
し、練習船として観光丸・黒竜丸の二隻が配備され
、同年5月をもって、正式に開所となった。

 操練所の運営費は、幕府より年3000両を出して
もらい、それで生徒たちの宿舎を設けたり、生徒た
ちに夏冬用の衣服まで支給した。
 操練所には、諸藩の委託生を中心に方々から集
まり、生徒数は200余名を数えた。
勝はこの操練所で、航海術を中心に西洋技術を教
え、海洋への知識修得を推し進めた。勝は、軍艦は
金を出せば、いつでも買えるが、その軍艦を操縦す
る人材は、すぐには手に入らないと嘆き、これから
の日本の海運を担う人材育成に力を注いだので
ある。

 操練所で学んだ生徒の中からは、明治維新後、
歴史に名を残した逸材が多く出た。紀州藩の陸奥
宗光や薩摩藩の伊藤祐亨(いとうすけゆき※後に
海軍大将)などがいた。
日本の未来を背負って立つという気概が強かった
生徒たちは、夜遅くまで放歌高吟をして町を練り歩く
といった気勢を上げる騒ぎを起こしたりもした。

 そんな自由奔放に学習生活を送っていた生徒たち
の中には、風評に影響されて、過激な尊攘行動に
突き進む者も出た。
池田屋事件で新選組に斬られた土佐藩脱藩士の
望月亀弥太や禁門の変に参加した、土佐藩脱藩士
の安岡金馬などいずれも操練所の門下生であった
ため、幕吏らの探索の手が操練所にも及んだ。
操練所が過激な尊攘派の巣窟となっていると疑った
幕吏らは、探索の結果、外国商人から大量に購入
した防寒用毛布を密かに長州藩へ送っているとして
京都守護職に報告した。
 これは、幕吏らの勘違いではあったが、この報告
を契機に神戸海軍操練所は閉鎖の憂き目を見る。
勝も遅かれ早かれ、操練所は短い期間で閉鎖され
ると予感していたらしい。
 江戸に呼び戻され、日本の将来を担う航海術師の
育成の夢は露と消えた。しかし、操練所を潰されて
、やることがなくなった坂本龍馬たち門下生は、その
後、薩摩藩へと赴き、薩摩藩の支援を得て、長崎に
亀山社中を設立し、国内最初の総合商社を開
いた。

 この神戸海軍操練所から出た門下生たちが中心
となって、結成した亀山社中やその後の海援隊の
活躍は、日本歴史を大きく変える力を持った。
その意味で、勝が目指した日本の未来を担う人物
育成は、一応の成果を見たのである。





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