和宮降嫁と坂下門外の変



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公武合体の象徴


 1860年(万延元年)は、幕府にとって権勢が揺らいだ危機的な年となった。
 桜田門外の変で大老・井伊直弼が浪士たちに斬殺されたことで、幕政の権威は大いに失墜した。
 幕政に反感を持つ尊攘派志士たちは、幕府転覆を成せる力量を天下に見せつけた事件だっただけに幕府も失墜した威厳を取り戻す必要に迫られた。

 そこで幕府は、前々から議論に上がっていた皇女・和宮(かずのみや)降嫁を実行に移すべきと判断し、朝廷に対して、和宮降嫁を願い出た。
 尊攘派の一派の反感を回避し、公武両極による共同政策にて、国難を乗り切ろうと考えたのだ。
 幕府側の一方的な方策ではあったが、朝廷内からも積極的に朝廷が国政参加を成せるとして、公武合体に意欲を見せる公卿も多少いた。

 幕政の実権を握っていたのは、老中・久世広周と老中・安藤信正であった。皇女降嫁を推進し、公武合体にて幕政の統制を図ろうとしたのである。
 一方、皇女・和宮の兄・孝明天皇は、幾度となく降嫁を要請する幕府に対し、断固として断り続けていた。
 理由は、和宮がすでに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約済みであり、関東の地が夷人の徘徊する野蛮な土地と聞いて、恐れていたからだった。
 また、和宮とは生母が違ったため、その遠慮もあり、佐幕の考えはあっても、公武合体の象徴として、和宮降嫁は有り得ないとしていた。皇女・和宮自身も固く降嫁を辞退していた。

 しかし、和宮降嫁を天皇に進言する公卿がいた。公卿随一の策士家として名を内外に馳せていた岩倉具視である。
 公武合体が成せば、国政へ積極的に朝廷が関わっていける上、天皇の意向も幕政に反映できるというのが岩倉の主張であった。
 和宮降嫁を許可する代わりに今後の外交・内政の施行前に、必ず朝廷へ奏聞(そうもん)あるべきことを幕府に約束させるという条件をつけるところにみそがあった。
 幕府に国政を任せることには変わりなかったが、幕府に国政を委ねているという形を内外に再認識させることができ、幕府は国政を代理で預かるという実状を明確化させる効果が期待できた。

 この岩倉の進言を聞き入れた孝明天皇は、幕府に和宮降嫁を認可するにあたって、その条件を提示し、1860年(万延元年)7月、幕府は和宮降嫁が実現すれば、7年〜8年ないし10年以内に諸外国と結んだ条約を破棄するか、攘夷を実行することを朝廷に約束した。
 幕府が条件を飲む意を受けて、孝明天皇は和宮降嫁を決意した。和宮当人は「天下泰平のため、誠にいやいやの事、余儀なく御受け申し上げます」と述べ、不本意なれど公武合体にて天下の平穏が成就できるならばと降嫁を承諾した。

 こうして、公武合体の象徴は、内外の不安をあおりながらも、新たな国政状態を生み出すための絆として、歴史的転機となるできごととなった。
 和宮と有栖川宮の婚約は解消され、有栖川宮の面目はなくなってしまったが、その後、戊辰戦争の時、有栖川宮は官軍総督となり、江戸へ東下していったことで、一応の面目回復を成している。






空前絶後の降嫁大行列


 1861年(文久元年)10月、皇女・和宮の行列は、京都を出発し、一路江戸へと向かった。
 この時の行列は一大行列を成し、護衛も物々しいほど厳重なものと成った。
 それは、過激な尊攘派志士たちによって、幕府へ人質同然で降嫁される和宮を奪還すべく、行列を襲撃する計画が成されていると風評が飛んだからだった。

 この噂のため、幕府は幕府の威信にかけて、行列の安全を守るため、御輿の警護に12藩をつけ、沿道の警護には29藩を動員して、絶対安全の確保を成した。
 このようないきさつにて、空前絶後の大行列が成り、大行列の長さは延々と50Kmにも達したという。
 一つの宿を行列が通り過ぎるのに4日もかかったというのだから、どれだけの人数が警護として動員されたかわからないほどだ。
 一行は11月に江戸へと到着し、婚儀は翌年の1862年(文久2年)にとり行われた。
 皇女・和宮と将軍・家茂はともに17歳であった。皆が心配した夫婦の仲は、意外にも仲むつまじく相思相愛であったようだ。和宮は公武合体という平和の使命感もあり、若くして将軍と成り、さまざまな難局に苦慮する夫・家茂をよく支えたという。
 将軍・家茂も健気に幕府と朝廷の仲を取り持つことに努力し、自分を支えてくれる和宮を愛し、細やかな気配りを成し、和宮の労苦をいたわったという。






坂下門外の変


 公武合体の象徴となる皇女・和宮と将軍・家茂の婚儀が無事終ったことで、幕臣たちもようやく一時の平穏を取り戻した。
 しかし、この婚儀が成される一ヶ月ほど前、和宮降嫁を推進した老中・安藤信正が坂下門外で浪士たちに襲撃されるという事件が起きていた。
 この坂下門外の変は、過激攘夷派の志士である水戸藩浪士4名と宇都宮藩士・大橋訥庵(おおはしとつあん)の門下生2名の合計6名で襲撃した。

 襲撃計画は桜田門外の変と同じく、直訴を装って近づく手口で襲撃していたが、わずか6名という小勢であったため、壮絶な斬り合いの末、浪士たちは全員討死し、襲撃は失敗に終った。
 それでも安藤は、襲撃者たちから幾度となく斬りつけられ、背中に三ヶ所の傷を負いながら、素足のまま坂下門へと逃げ込んだのである。
 襲撃者たちは、老中・安藤信正ら幕臣が強引な和宮降嫁を実現させた上、朝廷内を操作して、孝明天皇を廃帝にしようと企て、国学者・塙次郎
(はなわじろう※塙保己一の子)に帝の先例を調べさせていたと決め付け、暴挙に及んだ次第という。
 この一件で安藤信正は、幕府の威光を失墜させたことなどの失策にて、後に老中を罷免されている。

 尊攘派思想が全国に浸透し、尊攘の過激な志士たちによって、もてはやされるようになった朝廷の存在を幕府も無視できなくなった形で和宮降嫁が実行されたことは、幕政の権勢が次第に弱まりつつあることを暗示させていた。
 公武合体という手段でしか、幕府の体面を保つことができなかったことは、幕府の権勢を下げる一方で、朝廷の権勢を復権させる始動が成され、やがては尊攘派の志士たちが倒幕へと向かわせるきっかけともなった。
 その意味で、和宮降嫁の歴史的転機の意義は大きなものであり、幕府権勢の歴史の中で、一大転機と見るべきであろう。
 公武合体を成した幕府の政策は常に朝廷によって、振り回されることとなる。統一国家が成されなければ、中国の清国の二の舞を喰らうことが必至との判断が志士たちの間でついてきた時点で、公武合体による朝廷と幕府の二局政権の運命は崩壊という終焉に決まったのである。

 公武合体による朝廷と幕府による二局政権のうち、どちらを統一国家の正当な政権として存続させ、どちらを切り捨てるべきか、志士たちが判別に入った時、なんら迷うことはなかったであろう。
 尊王攘夷の思想を受け継ぐ志士たちは、国家統制の元帥はただ一つの機関にて古来から執り行われてきたことを知っていた。
 尊王の心は、外夷にさらされた国家存亡の危機に際して、揺ぎ無い正当な思想であり、政権代理の幕府が存続できる正当な理由は見当たらなかったのである。
 英明闊達な最後の将軍・徳川慶喜もそのことをよくよく認知していた。だからこそ、大政奉還を成して、国家統一を素早く成し、近代国家を歩むことを祈って止まなかったのである。
 その意味で、公武合体は国家統一が近代国家の原則としてある以上、時代が経過する上で自然崩壊する運命にあったのである。
 ある意味で、尊攘志士たちにとって、明瞭に倒幕を決意させることができたのも、公武合体によって、二局政治が愚策であると判断させることを促し、幕府がもはや余分な機関でしかないことを再認識させる効果をもたらしてくれた意義深い政局状態
であったといえるだろう。





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