幕末期も大詰めを迎え、薩長両藩の活動は激し さを増したが、土佐藩とて黙ってはいなかった。 土佐藩主・山内容堂は、藩政改革を実施し、富国 強兵・殖産振興を推進し、その出城として開成館 (かいせいかん)を設立した。 この開成館の中に設置されていた、長崎出張所 である「土佐商会」は、樟脳(しょうのう)・鯨油(げ いゆ)など土佐の産物を国内外に輸出し、一方で 艦船や武器などの購入を行った。 しかし、業務はあまりはかどらず、運営増進を 図るため、土佐藩から容堂の信任厚い後藤象二 郎と中浜万次郎が出張してきた。 中浜は、土佐の漁師で遭難した後、アメリカ人に 助けられ、そのまま渡米し、その地で英語や学識 を修得した。その後、帰国を果たし、英語力と西洋 学識をかわれて、幕臣となっていた。この時、故郷 の土佐藩で設置された開成館の事業に携わること を許され、土佐藩の業務増進を図るため、長崎に 出向いたのであった。 後藤は事業拡張のためには、商人たちと仲良く する必要があると称して、毎晩商人たちを招いて 宴会を開いた。 この後藤の悪評を知った土佐藩では、小観察の 谷干城(たにたてき)を長崎に派遣し、素行を正そ うとしたが、逆に後藤に谷は説き伏せられてしまい いっこうに宴会を開くのをやめなかった。 だが、藩主・容堂はそんな後藤を非難すること なく、後藤には考えがあってやっているのだから と一切とがめなかった。 一方、後藤が長崎に出向いているとの報せを受 けた亀山社中では、一部の社員が後藤を誅殺す ると息巻く者が出た。後藤は土佐勤王党の盟主・ 武市瑞山を罰した逆臣だから、討つべきだとの 主張であった。 しかし、龍馬は彼らの暴挙を抑えた。また、後藤 も自分が命を狙われていることを察知して、警戒 を怠らなかった。 その後、龍馬と後藤は清風亭で会合を設け、土 佐藩や国内情勢の行く末などについて語り合っ た。会合が終って、社中に帰ってきた龍馬は、社 員たちに向かって、「後藤は偉い奴だ。あれを利 用すれば、うまく仕事ができる」と後藤を誉めて、 後藤と手を組むことにしたことを伝えた。 この龍馬の後藤賞賛には、反対する者が出たが 、龍馬は「俺一人がたかだか500人ほどを率いて 、天下のためにしようとするよりも、24万石の土佐 藩を率いて天下国家のために行動する方が甚だ よろしい」と述べ、土佐藩を利用することで、事業 を成し易くなる利点を説いて、反対者を抑えた。 後藤の方でも土佐藩を脱藩していた龍馬の活躍 を見聞きしており、薩長両藩に出遅れた感のある 土佐藩を政局の中枢に踊り出るためのよい起爆剤 と考え、龍馬を活用しようと目論んだ。 双方の利益が一致して、龍馬は土佐藩に社中が 吸収合併される準備をはじめ、後藤は福岡孝悌 (ふくおかたかちか)と謀って、龍馬が脱藩した罪 を許す手続を進めた。龍馬と同じく土佐藩を脱藩 していた中岡慎太郎の罪も許された。 後藤・福岡・龍馬・中岡の四名は、長崎にある亀 山社中と土佐商会を吸収合併することで合意し、 改めて海援隊が結成された。1867年(慶応3年)4月 のことであった。 海援隊が結成されてから3ヶ月後には、後藤、福 岡の起案によって、陸援隊が組織され、その隊長に は中岡慎太郎が就任した。陸援隊は京都の白河藩 邸を拠点として、海援隊と連携を取りながら、土佐 藩の手足となって活動した。 海援隊の初仕事は、艦船がないため、大洲藩から いろは丸を15日間の期間と一度の航海で500両支 払う条件で借り、それを使って長崎から大坂まで 武器や食糧を運ぶ運送業を行った。 1867年(慶応3年)4月19日に長崎を出港したいろ は丸は、同月23日午後11時ごろ瀬戸内海を航行 中に、濃霧の中から突如現れ出た大型船に追突さ れ、あっさりと沈没した。いろは丸は45馬力、160トン であったが、いろは丸に衝突した大型船は150馬力 、877トンを誇る紀州藩所有の汽船・明光丸であ った。 龍馬は事件後の翌日から近くの鞆港(ともこう)で 賠償交渉をはじめたが、らちがあかず、改めて長崎 にて正式な交渉を行うことと成った。 徳川御三家の紀州藩は、幕権を傘に来て、まとも な賠償をしようとしない姿勢を取り、これに憤慨した 隊員2名が脱隊を申し込んだ。その理由は、明光丸 に斬り込んで、わからずやを誅殺するという過激な ものであったが、龍馬はその軽挙を抑え、交渉成立 を成せる妙案があると自信を見せた。 龍馬は、長崎での交渉前に長州の桂小五郎と謀 って、長州藩と土佐藩が連合して紀州藩を攻め込も うとしていると風評を流し、賠償金が得られなければ 、代わりに国を取ると強気の姿勢を紀州藩に報 せた。 結局、薩摩藩の五代友厚が調停に乗り出し、賠償 金8万3000両を紀州藩が支払うことで決着した。そ の後、紀州藩側から反対する意見が出たため、1万 3000両を減らし、賠償金7万両で話がついた。 また、船の所有者・大洲藩には、土佐藩から船の 代金と借用料を合わせた4万2500両が支払われ た。 いろは丸の衝突事故があった同じ年の6月、大政 奉還建白を山内容堂にうながすため、龍馬は後藤 象二郎とともに土佐藩の船で京都へと向かった。 その船中で龍馬が提示した案が有名な「船中八 策」である。船の中から眺め見た景色に8つの島が 見えたことから名づけられたという。 この「船中八策」の中で龍馬は、今後の日本運営 をどのようにすべきかを述べ、国家のあるべき姿の 見本を書き連ねた。人材登用や外交交渉、憲法の 制定、陸海軍の整備、通貨の安定など国家の屋台 骨が明記されていた。 その後、京都に入った龍馬と後藤は、武力倒幕を 主張する薩摩藩と交渉に入り、6月22日京都の料亭 で薩摩藩と土佐藩の首脳会議が開かれた。 土佐藩の出席者は、後藤象二郎、福岡孝悌、寺村 左膳、真辺栄三郎で、薩摩藩からは小松帯刀、西 郷隆盛、大久保利通であった。龍馬と中岡慎太郎 は浪士代表という形で会合に出席した。 会合では、王政復古を成して、将軍が政治を執る 制度を廃止すること。武力倒幕にせよ、大政奉還 にせよ、時局をよく判断して、両藩は互いに協力し 合いながら、難局にあたるべしとのことが約定さ れた。 後藤は、この大政奉還建白と薩摩藩と土佐藩の 同盟の内容を山内容堂に報告し、容堂は「よくそこ へ気が付いた」と膝を叩いて喜び、穏便に政権交代 が成されることに賛成した。 大政奉還と薩土同盟を成した龍馬は、その後、刺 客の手にかかり、非業の死を遂げたが、海援隊の 隊員の多くは、新政府の役職に就き、国家発展に 貢献した。 その後、結束が緩んだ海援隊は、山内容堂の指 示によって、土佐商会の整理とともに解散の通告が 出され、その役目を終えた。1868年(慶応4年)4月 のことである。 海援隊の結成で、龍馬は亀山社中ほどの自由は なくなったものの、土佐藩という強い支援者を得る ことができ、自らの立場も定まって、さらなる活動を しやすくした点で、海援隊の結成は大きな歴史的意 義を持つ。 |