第二次長州征伐



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四境戦争で見せた長州藩軍の強さ


 第二次長州征伐は、1866年(慶応2年)6月にな
ってようやく戦端を開いた。前年5月に江戸城を
出立した将軍・家茂は、一年以上過ぎて、ようやく
征伐戦を展開したのであった。
 今回の征長戦は、第一次征長とは打って変わっ
て、諸藩の反対論が強く、戦端を開いてからも、
征長軍の意見は統一を見なかった。諸藩は不平
不満を抱えながら、やる気のない戦闘へ突入し、
いざ長州藩軍と戦ってみると、その強さに驚き、
敗走するので精一杯であった。

 征長軍の装備は、旧式の火縄銃に槍、刀を持ち
、動きを極端に鈍くする重い甲冑を着ていた。
それに対して、長州藩軍は、みな軽装で、手には
最新式のゲーベル銃を持ち、西洋戦術で訓練され
た効率のよい戦闘を展開した。

 この兵団の力量さは歴然で、もはや征長軍には
、万に一つも勝因が見込めなかった。
この戦闘突入前から幕府内でも強硬に戦争する
ことを避け、長州藩の石高を減封処分とするなど
の処置が提案されていたが、長州藩はこの幕府の
妥協案に応じず、一石たりとも長州藩の領土を幕
府に取らせない構えを取り続けた。
 この頑強な長州藩の姿勢に幕府側が困惑した。
征伐に諸藩は強く反対し、幕府側でもあまり乗り気
がしなくなっていたが、一度長州征伐を全国に布
告した以上、引っ込みがつかなくなっていた。
 幕府の威信を揺るがすわけにはいかず、一橋
慶喜は、騎虎の勢いにてどうしようもない状況だ
と述べている。
※騎虎の勢い(きこのいきおい)とは、虎の背中に
乗った者は、虎の背中から降りてしまうと虎に喰
われてしまうので、虎の背中から降りるに降りられ
なくなってしまう状態を指す。転じて、一度、公表
してしまったものを引っ込めることができなくなって
しまうことを意味する。

 幕府は宣戦布告を長州藩に叩きつけておきなが
ら、いざ戦闘が始まろうとするとイヤイヤ仕方なし
に面目の手前、やらざるを得ない状況で戦端を
開いた。
 一応、戦略を立て、征長軍15万の大軍勢を利用
して、長州藩を四方向から一斉に攻める方法が
取られた。
 進攻ルートは、上関口(かみのせきくち※四国
方面)、芸州口(げいしゅうくち※山陽道方面)、
石州口(せきしゅうくち※山陰道方面)、小倉口(こ
くらくち※九州方面)の四方向に決まった。

 戦いはまず、上関口方面にある大島争奪戦から
始まった。6月7日、征長軍は軍艦で上関一帯や
大島の沿岸に砲撃を加え、翌日未明以降から伊
予松山藩軍と幕府軍陸兵部隊が大島に上陸し、
手薄な長州藩軍と戦い長州藩軍を大島から簡単に
追い払い勝利した。
 長州藩でははじめから大島にはそれほど重視して
いなかったため、島の守備は島民による兵団に任
せていた。そのため、手薄であったことから幕府軍
の勝利となったのである。

 しかし、これで黙ってはいない長州藩軍は、12日
から高杉晋作が率いる丙寅丸(へいいんまる)を
用い、夜陰にまぎれて幕府艦隊に近づき、激しく
砲撃して反撃の火蓋を切った。
 15日未明からは、長州藩の第二奇兵隊・浩武隊
の二隊を大島占領のために投入し、松山藩軍と
激しい戦闘を展開した。沖に停泊していた幕府艦隊
が長州藩軍の動きに応戦し、砲撃を打ち込み、戦闘
は一進一退の攻防が続いた。
 激戦の末、島内の各所で幕府軍を打ち破った長
州藩軍の勝利となり、大島奪還に成功した。この時
の激しい戦闘で松山藩兵が島民の民家に対して、
放火、略奪、殺戮など暴挙に出てしまい、多くの不
評をかい、後に松山藩主が陳謝している。

 この上関口方面での大島争奪戦は、第二次征長
の緒戦であったが、戦局にとっての重要度は低く、
この戦闘を傍観していたフランス公使・ロッシュは、
「陣取り遊びである」と評している。

 芸州口の戦いでは、近代装備と洋式訓練を受け
た幕府陸兵が配備され、その他にも彦根・高田・紀
州・大垣・宮津の軍勢が配置され、征長軍の中では
主力部隊である5万人が動員された。
 まず幕府は、先鋒隊に彦根・高田藩軍を芸州口に
投入した。岩国を両藩軍勢は、目指して進軍し、14
日未明、藩境の小瀬川において戦端が開かれた。
征長軍主力精鋭部隊を迎撃する長州側は、岩国
藩軍のほかに遊撃隊、御楯隊などの諸隊、総勢
1000名で防御線を張り、幕府軍の進撃を阻止しよう
とした。

ところがいざ、戦闘がはじまると長州藩軍の諸隊の
強いこと強いこと。幕府軍先鋒部隊は、次々と押さ
れていき、海岸まで後退して逃げ場がなくなると船
で危機を脱するという敗走劇を披露した。
この先鋒部隊の敗走を知った幕府軍は、征長総督
直属の幕府正規軍を戦線に投入し、広島領内に布
陣する長州藩軍を攻撃したが、逆に激しい猛撃に
さらされ、幕府軍はたまらず敗走した。

 22日になると長州藩軍は、陣容を立て直し、さらに
大野へと進撃を開始し、幕府側は守勢にまわって、
長州藩軍に応戦した。海上からは幕府艦隊の援護
射撃をもらって、徹底防戦の構えを見せた。
長州藩軍のあまりにも強い兵団振りに慌てた老中・
本庄宗秀(ほんじょうむねひで)は、拘留していた
宍戸備後助ら長州藩士2名を独断で釈放して、長州
藩との和議をはかろうとした。
 この老中の勝手な行動に怒った総督の徳川茂承
(とくがわもちつぐ)は辞表を幕府に提出するなど
征長軍本営は歩調が合わない混乱をきたした。

 幕府軍の歩調が乱れ、動揺している中で、長州藩
は長州藩に同情的な姿勢を見せていた広島藩と休
戦協定を結び、防衛線の地固めを成し、幕府軍を
長州藩領内には一歩も近づけず、藩外で幕府軍の
進撃を食い止める作戦を取った。

 石州口の戦いでは、幕府軍は3万の兵員を投入し
、その先鋒部隊は津和野藩・浜田藩とした。
その他に紀州・福山・松江・鳥取の諸藩軍で構成
されていた。
 これに対して、長州側は、清末藩主・毛利元純(も
うりもとずみ)を大将とし、参謀には高杉晋作と並び
称された軍略の天才・村田蔵六(むらたぞうろく※
大村益次郎)が就き、石州口防衛の指揮はもっぱら
参謀の村田が執った。長州側の兵員は1000名で
あった。
 幕府軍先鋒部隊を任されていた津和野藩は、長
州藩に同情的で、今回の征長戦では、長州藩に内
応しており、長州藩と戦うことを避けた。このことを
知っていた長州藩は、津和野藩方面への守備を
考慮することなく、浜田藩との戦線に総力を結集
した。
 16日未明、長州藩軍は陸海両路から一気に浜田
藩領内へとなだれ込み、益田の地へ進撃した。
これに応戦した浜田藩軍を撃破し、翌日には同地を
占領した。これに慌てた幕府軍は、急きょ紀州・福
山両藩の軍勢を出撃させたが敗退し、戦局挽回は
成らなかった。
 特に紀州藩は、敗走する味方の姿を突撃してくる
長州藩軍と見間違えて、戦わずに敗走する始末で
、まったく戦闘意欲がなく、弱腰部隊であった。

 こうして石州口の幕府軍は戦線を下げ、本営の
ある浜田まで撤退し、防戦の構えを取った。浜田藩
は劣勢を挽回すべく、鳥取・松江両藩の軍勢に援軍
要請を出した。防衛線を布く幕府軍に対して、長州
藩軍は、しばらく動かず、両軍は緊迫した対峙の状
況となった。
 7月に入ると、態勢を整えた長州藩軍が進撃を再
開し、浜田藩の城下町まで迫った。浜田藩は幕府軍
本営に救援を要請し、これを受けた幕府軍は岡山・
鳥取両藩の軍勢に出兵を命じた。
 しかし、岡山・鳥取両藩は幕府に講和するよう提
唱して、出兵を拒否した。援軍の見込みがないこと
を知ると浜田藩はやむなく長州藩と講和を提議し、
無用な戦闘を避けることは望ましいとして長州藩も
これに応じたため、講和会議が設けられる話まで
進んだ。だが、この会合談判の最中に浜田藩側は
はやとちりをして、城に火を放って、藩主以下藩士
たちはうちそろって松江藩へと逃亡した。

 浜田藩の大敗する姿を見た幕府軍は、戦意を完
全になくして撤退し、石州口方面の戦闘は長州藩
の圧倒的勝利に終った。

 九州小倉口方面での戦いでは、長州藩側は、今
回の征長戦で最大の要衝と見て、高杉晋作が率い
る最強部隊・奇兵隊を投入し、参謀に三好軍太郎、
軍監に山県狂介(有朋)ら軍略の才に長ける人材を
配置した。
その他に長府藩主・毛利元周も自ら長府藩軍を率
いて、戦線に出陣するなど長州藩側は小倉口を藩
の生命線と考えていた。

 これに対する幕府軍は、老中・小笠原長行を総督
にして、小倉に本陣を置き、小倉藩軍を先鋒部隊と
して、肥後・柳河・久留米など九州諸藩の軍勢を小
倉に布陣させた。

 17日未明、長州藩軍は幕府軍の軍事行動を事前
に察知し、機先を制すべく、先制攻撃に踏み切
った。この戦闘では、亀山社中の社員を率いた坂本
龍馬が艦隊を率いて、長州藩軍を援護した。
長州藩艦隊は、田野浦・門司浦に進攻して、砲撃を
加え、奇兵隊ら長州藩軍諸隊の上陸作戦を援護
した。
 ついで、壇ノ浦砲台から海峡越しに砲撃を加え、
この勢いをもって、長州藩軍は砲台を占拠した。
小倉藩内に進撃してきた長州藩軍の勢いに浮き足
立つ小倉藩軍は、藩領を敵軍に占領されたことに
発奮して、態勢を整えて激しい反撃に出た。
敵地での激しい戦闘に戦況不利を悟った高杉は、
優勢に戦闘を進めていた長州藩軍に撤退命令を
下した。隊士たちは不平をこぼしたが、幕府軍が
長州藩軍を包囲する前に下関へ引き揚げたことは、
正しい戦況判断であったといえよう。
 この戦闘の間、幕府千人隊や肥後・久留米の藩
軍は、戦況を静観するだけで苦戦を強いられていた
小倉藩軍を援護しようとはしなかった。

 7月3日未明、密かに門司へと上陸した長州藩軍
は、大里に布陣する幕府軍を強襲し、これを敗走
させた。再び藩領を侵害されたことを知った小倉藩
軍は、すぐさま戦線に駆けつけ、諸藩の援軍もない
まま、独力で長州藩軍と戦った。
 27日には、新たに攻撃をしかけ、長州藩軍は陸と
海から砲撃を加え、上陸作戦を敢行し、大里から赤
坂まで進撃した。
 この動きを見た幕府軍は同じく陸と海から激しく応
戦し、一時は攻勢に転じるほどの盛り返しを見せ
た。だが、長州側は増援部隊を投入し、戦況はこう
着状態を迎えた。

 両陣営は総力戦へと突入し、29日に小倉藩は全
軍を挙げて防衛態勢を取ったが、肥後藩が勝手に
戦線離脱を成し、これを見た久留米藩や柳河藩は
同じく撤退する姿勢を見せた。
 さらに幕府軍には訃報が届く。将軍・家茂が急死
した報せが小倉口総督の小笠原長行の元へ届く。
敗退も時間の問題という戦況の中での報せであっ
たため、小笠原は勝機のないことを悟って、本営か
ら脱出して逃げるように戦場を跡にし、大坂へと向
かった。
 幕府軍は、総督を失ったため、完全に統率が取れ
なくなり、諸藩は次々と帰藩していった。しかし、藩
領を長州藩に一部占拠されていた小倉藩軍だけが
頑強に長州藩と対峙した。
 8月1日、もはや戦闘継続不可能と悟った小倉藩は
、自ら小倉城に火を放ち、藩府を香春(かわら)に
移して、長州藩との戦闘を終えた。年少だった小倉
藩主は身の安全をはかって、肥後藩へと落ち延び
ていった。

 こうして「四境戦争」とも呼ばれた第二次征長戦は
終わりを告げた。幕府軍は長州藩の領内に一歩も
踏み入ることができず、長州藩外の地で戦い、そし
て敗退していった。征長戦は完全な幕府軍の敗北
であり、幕府の権勢はここに最後の失墜を見て、
もはや二度と幕府の権勢はよみがえることがなか
った。
 幕府軍の敗因は、幕府軍を構成していた諸藩の
戦闘意欲があまりにも低かったことが挙げられる。
諸藩は戦闘が始まっても、講和の道を主張して、
戦闘意欲を持たなかった。戦う兵団の士気が著しく
違っていたのである。
 また、諸藩同士で協力し合う連携態勢がまったく
整っていなかったことも敗因の一つであった。浜田
藩や小倉藩のように徹底的に戦闘意欲を見せた
藩も少なからずあったが、結局それら意欲ある藩に
同調して援護する藩がでなかったため、孤立無援の
戦いを余儀なくされた。
 ついで、長州藩側は同調する諸藩を徹底的に取り
込み無駄な争いを極力少なくした点が挙げられる。
諸藩の同調を誘った長州藩の外交力は大したもの
であった。

 これらさまざまな要因によって、幕府は15万という
大軍を率いながら、わずか1万足らずの長州藩軍に
大敗を喫するという信じられないような失態劇を演
じてしまったのである。





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