薩長同盟



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幕府の運命を決めた幕末最大の同盟


 薩長同盟は、まさに歴史を変えた幕末期最大の
同盟といってよいだろう。
1864年(元治元年)に起きた第一次長州征伐で、
長州藩は戦わずして、降伏し幕府に恭順の意を
表した。尊攘派藩士たちは、藩政から追放され、
高杉晋作は、身の危険を感じて、九州へと逃亡せ
ざるを得なくなった。

 長州藩の主導権は、俗論派が握り、純一恭順を
表して、幕府にとにかく逆らわない方針を打ち出し
ていた。そして、藩内の尊攘派である正義派たち
を迫害した。
 このまま長州藩は、骨抜きになるのかと思われ
たその時、高杉晋作は意を決して、下関に舞い戻
り、奇兵隊ら諸隊を扇動して、藩内革命戦を断行
した。
 この乱戦で、高杉らが率いた正義派が各地で
勝利を収め、藩政から俗論派は追放された。
高杉ら正義派が藩政を牛耳ると、かねてから主張
してきた武備恭順の方針を打ち出した。
藩外では表向き幕府などに恭順しておとなしく装い
藩内では、西洋の最新武器を導入したり、兵団の
西洋式戦術の訓練を成したりと軍備の近代化を
推し進めた。
 高杉たちは、あえて敵対してきたイギリスなどの
欧米列強と仲良くし、軍備増強を成して、欧米に習
って国内統一を果たし、その上で、近代国家を歩
む方針を定めたのだった。

 だが、高杉たちの思惑は、途中で大きな障害に
ぶち当たった。公の場では、欧米列強から武器を
購入できないので密貿易という形で、闇商人から
購入していた。下関はその密貿易で賑わいを見
せたが、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ四カ
国は、日本国内への干渉をしない方針を打ち出し
、同時に長州藩に武器を売らないことを決定した。
 このために長州藩は、闇商人から武器を購入す
ることができなくなり、武備増強を図るという方針
は初手から大きな挫折となった。

 一方、薩摩藩では佐幕よりの姿勢を取らざるを
得ないことを苦慮していた。第一次征長では、薩
摩の西郷隆盛が参謀に抜擢され、幕府派として
活躍を見せた。
 だが、幕府の傲慢で、幕府権勢の回復ばかりを
目指す姿に大きな疑問を持っていた。国難を打開
するための方針を打ち出せないでいる幕府にあき
れていた西郷たち薩摩藩は、そんな頼りない幕府
の番犬のような役割を担わされていることが嫌で
あった。
 だが、これといって、妙案も浮かばず、薩摩藩は
どのように行動すればよいか模索する日々を送っ
ていた。そんな中、神戸海軍操練所の頭取を勤め
る勝海舟という幕臣にあった西郷は、大きな感銘
を受ける。
 勝は幕臣でありながら、幕府はもうダメですと豪
語する人物で、有能な大名同士が合議して国政を
取り仕切る共和制の政権を立てるべきという新し
い政権構想を語った。
 西郷は、幕府にいつまでも捕らわれていては、
欧米列強にいつまでも出し抜かれる存在でしか
日本は有り得ないという新説を得て、本気で幕府
を倒すべきかも知れないと考えるようになった。

 薩長の思惑が段々と倒幕思想へと傾いていた
折に、幕府は再び長州征伐を起こそうとしていた。
長州藩が再び、暴挙を起こそうと密かに軍備増強
を成していることを非難し、第二次征長を起こすこ
とにしたのであった。
 だが、第一次征長と違って、長州藩はすでに幕
府に表向きにせよ降伏恭順の姿勢を取っており、
ここで、むやみに戦争を引き起こす幕府に対して
大きな不満が寄せられた。
 諸藩は戦費がかさむ戦争への反対を強めたが
幕府はそれを許さず。再び国内を乱す無益な争い
に着手した。

 こんな緊迫した情勢の中、薩長両藩が倒幕の思
想を抱いていることがわかり、何とかこの両藩を
結び付けられないかという話が持ち上がって
いた。
龍馬と同じく土佐藩を脱藩していた中岡慎太郎や
土方久元らが、薩長の和解を画策して奔走して
いるとその運動を聞きつけた龍馬も早速その運動
に参加した。
 薩長両藩の説得工作をはかり、長州藩に名が
知れていた龍馬と中岡が長州藩の木戸孝允を説
得し、とにかく薩摩藩の西郷隆盛に会うというとこ
ろまでこぎつけた。
 ついで中岡が西郷へ交渉して、ようやく薩長両藩
の指導者が会合を約した。会合場所は下関という
ことに決まり、先に木戸と龍馬が下関で西郷と中
岡が来るのを待った。しかし、半月近く待ったが、
結局、西郷は現れず、中岡一人が下関に現れた。
聞くと西郷は、急用で下関に行けず、京都へ向か
ったというのである。
 これを聞いた木戸は憤慨して、薩摩藩を非難し
見くびる始末。怒る木戸を何とかなだめた龍馬は、
西郷や小松帯刀に会いに行き、前回の違約を責
め、その詫びとして長州藩のために薩摩藩名義
で外国から武器を購入し、その武器を長州藩に送る
ことを提案する。
 小松帯刀は佐幕の立場を取る薩摩藩がいきなり
長州藩の援助をすることに反対したが、西郷はこれ
を快諾し、あっさりとこの約束を果たした。
この薩摩藩の好意で成した武器購入によって、長州
藩は少しずつ薩摩藩へのわだかまりを解いてい
った。この時、長州藩は薩摩藩名義で、グラバーか
らミニエー銃、ゲベール銃を購入し、総数7300挺を
そろえた。この買い物だけで長州藩は実に10万両
もの大金をはたいて購入している。

 その年の11月に薩摩藩の黒田了介(清隆)が下関
に訪れ、長州藩との会合を設けたいので木戸に上
洛を求めた。だが、まだ薩摩藩への疑惑が解けな
長州藩士たちはこぞって、木戸の上洛に反対し、
木戸自身も西郷の人物像がつかめず、行くのをた
めらった。
 しかし、龍馬と高杉が熱心に木戸を説得したため
、木戸はしぶしぶ上洛した。木戸は京都二本松にあ
る薩摩藩邸に入り、西郷との会合に臨んだ。
1866年(慶応2年)1月のことであった。

 西郷はじめ小松や大久保利通などが連日のよう
に木戸を歓待したが、同盟の話はいっこうに進展
しなかった。両者とも藩の面目もあって、意地を張
って、同盟の話を切り出せないでいた。こんなにら
み合いのような状態が10日以上も続き、いよいよ、
木戸が長州へ帰ろうとした前日になって、ヒョッコリ
と会合の様子を見に龍馬が顔を出した。
 すると西郷は、実はまだ同盟の話は何もしていな
いのだと照れ笑いし、龍馬は驚いて、木戸に聞いて
みると木戸は相手が何も話さないから士方がない
と述べた。
 このだらしなさに怒った龍馬は、西郷と木戸を並
べて、国難打開を達成するために結成する同盟に
藩の面目だの前のいきさつだのにこだわるとは、
小心者もいいところだ!と激論を打った。
 この龍馬の気迫に恐れ入った西郷と木戸は、よう
やく腹を割って、同盟締結の会合を持った。
 こうして、斡旋と叱咤激励によって、薩長同盟は
やっとこさっと締結の日の目を見たのである。この
同盟で、薩長は何があっても国難打開のために
ともに力を合わせて、尽力し、互いに助け合いをす
る協調姿勢を盟約した。

 この同盟によって、倒幕方針は確実なものとなり、
天皇を頂点とする新しい近代国家を樹立するため
に薩長はともに歩調を合わせて、推し進めていくの
であった。
 龍馬の気さくな人柄をもって、初めて成功した同盟
であった。幕府や藩といった枠組みを超えた、国家
統一という近代国家創設にどうしても必要な同盟で
あり、この旧来の枠組みを超えた考え方が、新政府
樹立の意識へと受け継がれていった。
 その意味で、薩長同盟は、その後の志士たちの
意識改革を成す大きな契機となったとても意義深い
同盟であったのだ。





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