大政奉還と討幕の密勅



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幕藩体制の終焉


 1865年(慶応元年)、幕府は孝明天皇から条約
の勅許を得たとき、欧米列強が開港要請をしてい
た兵庫については、認められないと言い渡された。
京都に近い兵庫の港を開港すれば、夷人たちが、
京都になだれ込んでくることを天皇・朝廷は恐れた
のだ。天皇・朝廷では、夷人をまるで悪魔の使者
のように思っていた。不吉極まりないというので
ある。

 天皇・朝廷から兵庫開港するべからずとクギを刺
されていた幕府だったが、幕末動乱も最終段階を
迎えた1867年(慶応3年)3月末、突如将軍・徳川
慶喜は、大坂城にイギリス・フランス・アメリカ・オラ
ンダの公使を招き、同年12月に兵庫を開港すると
確約してしまった。
 この慶喜の横暴に驚いた西郷隆盛ら志士たちは
、薩摩藩主・島津久光、土佐藩主・山内容堂、宇和
島藩主・伊達宗城、越前藩主・松平慶永の四侯会
議を樹立して、慶喜の暴挙を止めるよう差し向
けた。
 四侯は将軍・慶喜に対して勅許なしで兵庫開港
を確約した責任を追及し、しまいには将軍職を辞
めるよう詰め寄ったが、四侯の歩調は乱れ、慶喜
の説得に失敗し、逆に英明な慶喜から兵庫開港
は必要不可欠という論説に四侯は説得され、無理
無理開港賛成を強要されてしまった。
 四侯会議は事態打開を成せずに解散の憂き目
を見て、西郷たち志士たちからは見限られてしま
った。

 四侯を黙らせ、説得まで成した慶喜は、政権主
導の自信をつけ、5月23日に老中を引き連れて、
参内し、一昼夜をかけて、朝議した末、とうとう兵
庫開港を天皇・朝廷は認めてしまい、慶喜に勅許
を出した。

 四侯会議による政権主導は失敗し、英明な慶喜
は朝廷をも丸め込んでしまう力量を発揮し、西郷
たちが当初目指した共和制政権は、不可能とな
った。
 この独裁的な敏腕政治家を黙らせるには、列藩
会議など平和的な手段では不可能と判断した西
郷たちは、武力倒幕を目指すことにした。

 一方、土佐藩では、坂本龍馬と後藤象二郎が
大政奉還を画策し、龍馬は「船中八策」を起草し、
これを元にして、大政奉還はいよいよ現実味を帯
び出してきた。土佐藩主・山内容堂はこの大政奉
還を歓迎し、天皇を頂点として将軍や大名たちが
集い、国政を執っていけばよいと考えた。
 容堂は早速、10月3日に幕府老中・板倉勝静に
大政奉還建白書を提出し、将軍に大政奉還を促
した。

 一方、倒幕を決意した薩長両藩士たちが、挙兵
盟約に芸州藩を加え、京都・大坂に続々と藩兵を
終結させた。10月8日に薩摩・長州・芸州の三藩は
、反幕府派公卿・中山忠能(なかやまただやす)・
中御門経之(なかみかどつねゆき)に討幕の密勅
を下すよう奏請した。
 14日には薩摩藩・島津茂久父子および長州藩
毛利敬親父子に対して、討幕の密勅が授けら
れた。その密勅にそえて、京都守護職の松平容保
と京都所司代の松平定敬を討伐せよとの勅命も
下った。

 この討幕の密勅は、岩倉具視の近臣・玉松操(
たままつみさお)の起草といわれ、天皇の直筆も
なく、中山・中御門・正親町三条の連署があるのみ
で花押もないという異常なもので、本物の勅許か
どうか不可解な部分を残している。

 この討幕の密勅が下されていた時期、幕府側で
は着々と大政奉還への準備が執り行われていた。
慶喜は容堂の建白を受け入れ、10月13日、京都
二条城に幕府役人と諸藩重臣を集め、その前で
慶喜は天皇に政権返上をする意向を告げた。
 翌日の14日に大政奉還を朝廷に上奏した。この
日はちょうど西郷たちに討幕の密勅が下った日と
同日であった。
 翌日の15日には、大政奉還の上奏が朝廷で受
理され、この日をもって徳川幕府はおよそ260年の
永きに渡る国政の座から退いたのであった。
名目上は幕府はなくなったものの、旧幕府という
形で未だに国内最大の勢力組織を保持していた。
そのため、大政奉還が成された後も、旧幕府の勢
力を完全に排除し、新政府の支配下に置かなくて
は、国家統一は実現を見ないのであった。
 その意味で、大政奉還後の戊辰戦争は必然的
な要素を含んだ兵乱であったといわなくてはなら
ない。





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