王政復古の大号令



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西郷たち志士による政権樹立宣言


 王政復古の大号令は、一種の政権革命宣言で
あった。武士たちが中心となって、国政を取り仕切
ってきた旧体制と見切りをつけて、天皇を頂点とす
る日本史最初の統一国家に立ち戻った組織作りを
することを内外に示したのである。

 国家統一は欧米列強がこぞって成していた国家
形体であった。日本も遅ればせながら、幕藩体制
から天皇を中心とする完全な統一国家を成したの
であった。

 この革命宣言前夜から京都は非常に慌しくなり、
朝廷内は騒然となった。
このクーデター前夜から翌朝までの動向を記すと
 @長州藩主・毛利敬親父子に対して、これまで
   の罪を許し、官位も元に復す処置が成され、
   長州藩軍は西宮に上陸した後、すぐに京都
   入り口まで迫り、長州藩は京都に返り咲いた
   のである。
 A1863年(文久3年)8月18日の政変以来、京都
   を追われていた七卿らがその罪を許され、
   元の官職に復された。
 B1862年(文久2年)秋から洛中から追われ、五
   年間に渡って蟄居処分となっていた公卿の
   岩倉具視が許され、朝廷に返り咲いた。
 これらの処置は、1867年(慶応3年)12月8日に
摂政・二条斉敬(にじょうなりゆき)以下の公卿や
在京の有力諸侯らによって、夜通しで開かれた
会議で決まった。いろいろと議論紛糾したが、上記
の処置でまとまった。

 こうして、昨夜から続いていた会議は午前8時過
ぎに終了し、摂政・議奏・伝奏らが退出すると、そ
れと入れ違いに今さっき蟄居処分を赦免されたば
かりの岩倉が衣冠束帯(いかんそくたい)に身を
かため、かねてから用意していた文書を持って、
参内してきた。
 岩倉は近臣で知恵袋の玉松操(たままつみさお)
が練り上げた「王政復古の大号令」の文案を天皇
に奏上した。
 岩倉は中山忠能(※明治天皇外祖父で、あの天
誅組主将を勤めた中山忠光の父である)とともに
天皇に拝謁し、王政復古の大号令を発するために
小御所会議が開かれることを奏上した。

 この岩倉の計画は、西郷・大久保・長州の品川
弥二郎らと協議し、さらに大久保が蟄居中だった
岩倉と密議を重ねて立てたもので、それを土佐
藩の後藤象二郎にも事前に伝え、同意を取り付
けていた。まさに練りに練り上げた用意周到な
計画であった。
 午前九時過ぎごろから西郷が率いる薩摩藩兵
が宮門護衛に入り、続いて尾張・越前・安芸の各
藩兵も繰り出して、同様に宮門を警護した。
 公家門(※宜秋門(ぎしゅうもん))は桑名藩兵が
守っていたが、早々に接収に応じて、他藩と交替
した。ついで、唐門・蛤門を守備していた会津藩兵
も薩摩藩兵と交替した。
 会津・桑名藩兵は二条城に引き揚げて、情勢を
見守るしかなかった。

 宮門警護が厳重にされている中、遅れて山内容
堂が参内し、岩倉たちはただちに持参した「大号
令文案」を決定し、居並ぶ一同は学問所で天皇(
※当時15歳)に引見のうえ、大号令が下された。
文案は神武創業への復帰を謳い、国政統治を天
皇を頂点として執り治めていく方針が公布された。
 そして、従来の官職をすべて廃止し、新しい三職
が設けられた。廃止された官職は、関白・議奏・伝
奏・守護職・所司代などで、新しく設けられた三職
は、総裁・議定(ぎじょう)・参与(さんよ)であった。

 この新しく設けられた三職には、
 ●総裁 有栖川熾仁親王(ありすがわたるひと
   しんのう)

 ●議定 仁和寺宮(にんなじのみや※親王)
       山階宮(やましのみや※親王)
       中山忠能
       正親町三条実愛(おおぎまちさんじょ
       うさねなる※公卿)
       中御門経之(※公卿)
       徳川慶勝(※前尾張藩主)
       松平慶永(※前越前藩主)
       浅野茂勲(※前安芸藩主)
       山内容堂(※前土佐藩主)
       島津忠義(※前薩摩藩主)

 ●参与 大原重徳
       万里小路博房(までのこうじひろふさ)
       長谷信篤(ながたにのぶあつ)
       岩倉具視
       橋本実梁(はしもとさねやな)
       ※いずれも公卿

 王政復古の大号令が成され、三職の人事も決ま
るとその夜のうちに小御所にて、三職による初め
ての会議がもたれ、天皇も臨席して開かれた。
三職のほかに尾張藩士・田宮如雲(たみやじょう
ん)ら三名、越前藩士・中根雪江(なかねゆきえ)
らニ名、安芸藩士・辻将曹(つじしょうそう)らニ名
、土佐藩士・岩下佐次右衛門(いわしたさじえもん)
、福岡孝悌、薩摩藩士・大久保利通らが陪席を許
された。西郷は中座して、御所の護衛と諸隊指揮
にあたった。

 議題の中心は、必然と大政奉還を成した徳川慶
喜の処遇に集中した。新たな政権の会議に慶喜
が呼ばれていないのは片手落ちではないかと山
内容堂が難癖をつけ、岩倉との激論が始まった。

 容堂は「幼沖(ようちゅう※幼い)天子を擁して、
権力を私物化するものだ」と岩倉たちの行動を非
難した。
 これには岩倉も激怒し、「幼い天子とは無礼千
万!本日の決定はすべて天皇のご英断によって
なされたものぞ!」と息巻いた。徳川家康が泰平
の世を築いた功績は認めるが、その子孫たちが
皇室をないがしろにし、多くの失政を行いながら、
この期に及んで、反省しないのは言語道断である
と慶喜を徹底的に非難した。
 「官位を辞して、納地を朝廷へ返納するのが筋
であろう」と慶喜の天皇に対する不忠を責め、「名
ばかりの大政奉還を成して、今なお土地と領民を
手放さないのは、叛意あるは明白である」と決め
付けた。

 岩倉と容堂の対立は激しくなるばかりで、いっこ
うに議論の進展を見なかった。この成り行きを不
安に思った岩下が席を外して、外で諸隊の指揮を
執っていた西郷に報告するとそれを聞いた西郷は
、平然として「短刀一本でカタがつくではないか」と
述べ、この自分の意見を岩倉と大久保に伝えるよ
うにいった。
 会議は一時、休廷して再度、取り直しとなってい
たが、この西郷の意見を聞いた岩倉は決意を固め
、一方で同じくこの西郷の意見を聞いた後藤象二
郎は慌てて、主君・容堂の説得にあたった。
 そこに居合わせていた越前藩主・松平慶永は、
容堂寄りの意見を持っていたが、同じく後藤に説
得されて、容堂と慶永は結局、岩倉たちの主張を
聞き入れることにした。

 再度、開かれた会議の席で岩倉は、同じく慶喜
への処置は厳罰をもって臨むと主張し、容堂と慶
永はこの意見を承諾せざるを得なかった。こうして
、会議は深夜二時過ぎになってようやく決議し、
新政府最初の会議は無事終了したのであった。

 この会議の結果は、すぐさま二条城にいた徳川
慶喜の下に知らされた。徳川慶勝と松平慶永が
慶喜に会い、会議の模様を伝え、旧幕府の領地
400万石とそこに住む領民を天皇に返上すること
が決定された旨を述べた。
 慶喜はこれを受け、旧幕府側が挙兵に及ぶこと
も想定されるので、宮廷工作を成して、何とか巻き
返しを謀った。
が、薩摩藩の西郷隆盛が江戸にいた相良総三た
ちに暴動を起こさせ、江戸を騒然とさせると江戸の
警備を任されていた庄内藩が耐え切れなくなって
、江戸にある薩摩藩邸に押しかけ、焼き打ちにして
しまった。
 この報告を受けた西郷は「しめた!」と歓喜し、
討幕の口実を得たことを喜んだ。旧幕府側は、こ
れでついに朝敵の汚名をきることとなった。
こうなってはしょうがないと慶喜も意を決して、1868
年(慶応4年)1月1日に「討薩の表」をつくり、新政
府に対して宣戦布告をした。
 旧幕府軍や会津・桑名の藩兵たちは、新政府と
の決戦を強く望み、慶喜にはこれら血気盛んな者
たちを止める手立てがなかったため、ひと暴れさ
せて、不満を発散させた後に恭順することを考え
た。

 慶喜として見れば、自分が政局にいつまでもこだ
わっていては、旧幕府側の野心を燃え上がらせる
だけで、国内に兵乱がいつまでもはびこると考え
ていた。そうなっては、欧米列強に日本国内への
干渉を呼び起こし、日本は植民地となってしまう
可能性もあった。
 そのため、慶喜は国家統一が素早く成される
必要性を誰よりも強く感じていた。そこで、戦争を
したがる旧幕府軍に暴れる機会を与え、結局は
敗れて気勢がそがれたところで、自分は天皇に
対して徹底恭順する。そうすれば、国内の兵乱は
勢いをなくし、新政府の新しい統一国家が実現し、
近代国家へと邁進できると予測した。
 ここに慶喜の智略が活きていた。単に恭順謹慎
を自分が勤めても、旧幕府軍はそれを許さない。
だからこそ、一度でも新政府軍と戦い、手痛い敗
北をすれば、納得しておとなしくなると考えたので
ある。






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