鳥羽・伏見の戦い



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官軍と旧幕府軍の熾烈な戦い


 大政奉還を成した徳川慶喜は、京都二条城にて
情勢を見守っていた。宮廷の小御所では、会議が
開かれ、新政府の方針が話し合われていた。
 その議論の中身は、慶喜の処遇で揺れた。結局
、徳川家の所領400万石とその領民を天皇に返す
処置で決まった。完全に西郷ら志士たちの思惑が
勝利した会議だった。

 しかし、慶喜も黙ってはいなかった。国内の混乱
を招かないためには、旧幕府の力を根こそぎ奪う
やり方は愚策だと考えていた。
旧幕府の所領を持つ幕臣たちが許さないだろう。
そうなれば、命がけで兵乱を新政府に起こすこと
になる。
 そのようなことにならないようにするためには、
旧幕府の力をいまのまま保持して、幕府や諸藩が
天皇・朝廷に協力するという形の方が無難だと考
えた。そこで、慶喜は朝廷に猛烈に工作を成し、
旧幕府の領地だけを没収するのは、理にかなわ
ない愚策であると提示し、旧幕府と諸藩がこの新
政府の処置に不満を抱いて、大きな兵乱を起こす
恐れがあると脅迫した。
 そして、この兵乱を起こさせないようにするには、
旧幕府と諸藩に新政府の運営費を負担させること
で政局参加を促し、天皇・朝廷を頂点に大名たち
が集って国政を執り行うのが、秩序を崩さずに新
政府を運営できると提案した。

 この慶喜の意見は、朝廷内でも好評を得て、討
幕を主張する岩倉や大久保たちの意見は、現状
の秩序をむやみに乱す物騒な意見として段々と
斥けられていった。
 慶喜の巻き返しは成功するかに見えた。天皇・
朝廷は、これ以上国内の秩序を乱す乱暴なやり方
を好まず、慶喜ら前政権の組織を新政府が継承
すれば、平穏のうちに国政を刷新できると考えた。

 この慶喜の巻き返しに焦った西郷たちは、その
年の10月に江戸の治安をかく乱させて、旧幕府側
に兵乱の火蓋を先に切らせるよう仕向けた。
 まず、益満休之助(ますみつきゅうのすけ)や伊
牟田尚平(いむたしょうへい)ら薩摩藩士を江戸に
送り込み、相楽総三らと協力して江戸治安を乱す
暴挙を起こした。
 多数の盗賊や無頼漢・浪人をかき集めて、徒党
を組ませ、江戸市中で暴行や略奪行為を繰り返し
行わせた。
 それでも江戸治安を守る旧幕府側と江戸市中警
備の任についていた庄内藩士たちは我慢した。慶
喜から薩摩藩の挑発に乗ってはならないと厳しく
命令されていたからだ。
 なかなか暴徒を鎮圧しない旧幕府側の反応に
いらだった相楽たちは、風評を江戸市中に流した。
それは12月に大風が吹く日を選んで、江戸市中数
十ヵ所に放火し、江戸を火の海とし、この混乱に乗
じて、江戸城に押し入り、静寛院宮(せいかんいん
のみや※和宮)と天璋院(てんしょういん※島津斉
彬の養女)を連れ去る計画が密かに薩摩藩邸内で
進められているというものであった。
 この風評が流れてまもない23日に江戸城二の丸
が全焼する騒ぎが起き、この風評は現実味を帯び
、旧幕府側を大いに刺激した。
 これでも動かない旧幕府に対して、相楽たちは大
胆にも江戸薩摩藩邸近くにある庄内藩屯所に向け
て発砲する事件を起こした。これには、庄内藩も怒
り浸透となり、ついに旧幕府側もしびれを切らして、
庄内藩兵とともに薩摩藩邸を包囲し、実行犯の捕縛
を開始した。

 庄内藩兵は、大砲で薩摩藩邸を焼き打ちし、藩邸
内にいた150名の藩士や浪士たちと斬り合いとな
った。この斬り合いで薩摩藩側は三分の一ほどが
討死にし、益満ら多くの者が捕縛された。
 かろうじて包囲を破り脱出した者は伊牟田ら30名
ほどで、彼らは薩摩藩船・翔鳳丸(しょうほうまる)に
飛び乗り、追撃してくる旧幕府軍艦を振り切り、大坂
へと急行した。

 この江戸での薩摩藩邸焼き打ちの報せは、京都・
大坂にも届けられ、以外にも新政府側よりも旧幕府
軍側を大いにあおる結果となった。
 旧幕府軍は江戸の同志たちに遅れては成らない
とはやり、新政府に攻撃する構えを見せた。

 この時、大坂城にいた慶喜ら旧幕府側は、懸命の
巻き返し工作で、旧幕府・諸藩による資金提供を
もって、新政府への参加を認められる話にまでこぎ
つけていた。莫大な資金提供をする形で国政に携
われるとなれば、400万石を領有する徳川慶喜が
政権主導を握ることを意味していた。
 岩倉・大久保たちは頑としてこの案件を否定した
が、慶喜の巧みな巻き返し工作には勝てず、慶喜
中心の政権もまじかとなっていた。

 そんな情勢の中、江戸薩摩藩邸焼き打ち事件の
報が京都・大坂に飛び込んできた。慶喜は「しまっ
た!」と叫んだ。もはや後の祭りだった。岩倉ら反
幕府派たちに討幕の口実を与えてしまったのだ。
大坂城にいた旧幕府軍は興奮の極地に達し、もは
や慶喜とて抑えることができない状態となっていた。

 慶喜は旧幕府軍の勢いを止めることができない
以上、一戦交える以外にないと考え、1月1日に薩摩
藩の罪状を列挙して、奸臣の引き渡しを要求した。
もし、この要求が聞き入れられないのであれば、征
伐するとして、「討薩の表」を朝廷に提出しようとし、
この行動を諸藩にも伝え、援軍を要請した。

 こうして、2日には、老中格・大河内正質(おおこう
ちまさただ)を総督とし、若年寄並・塚原昌義を副
総督とする旧幕府軍1万5000が大坂から進発した。
その後、淀に本営を起き、京都の情勢を見た。
 ついで、会津藩兵を先鋒とする旧幕府軍が伏見に
集結し、幕府陸軍奉行の竹中重固(たけなかしげか
た)を指揮官とした。新選組など幕吏も吸収して、伏
見奉行所を本営とした。

 慶喜が入京し、参内するのを待っていた松平慶永
らは、旧幕府軍が大坂を進発したことを聞き、慌て
て京都に進撃しないよう使者を送ったが、間に合わ
なかった。幕府軍は鳥羽・伏見の地に集結し、今に
も京都へなだれ込もうと意気込んでいた。

 この旧幕府軍の進撃を見た西郷や大久保は喜
んだ。旧幕府を討幕する口実を得たのだ。西郷たち
反幕府派の志士たちにとって、慶喜が京都に入り、
参内すれば、討幕はもはや不可能となることを知っ
ていた。西郷たち反幕府派の志士たちの立場も危う
くなる。それが、旧幕府軍の軽挙によって、西郷たち
は息を吹き返した。

 大久保は岩倉・三条たちを説き伏せて、討幕の決
断をうながし、三職以下百官の緊急会議を開き、徳
川家を朝敵と見なし、旧幕府組織を討幕する決議を
得た。

 この緊迫した情勢の中、鳥羽・伏見の戦いの前
哨戦(ぜんしょうせん)ともいうべき戦闘が2日夜に
起きた。大坂を出港した薩摩藩の汽船・平運丸が
幕府軍艦奉行・榎本武揚が率いる開陽丸・蟠竜丸
(ばんりゅうまる)に突然、砲撃された。
 翌朝になって薩摩藩側は抗議したが、榎本は江戸
薩摩藩邸を焼き打ちした時からすでに交戦状態に
あるとして取り合わなかった。

 さらに4日には紀淡海峡(きたんかいきょう)で薩摩
藩の軍艦・春日丸と幕府軍艦・開陽丸とが遭遇して
、砲撃戦となった。春日丸は戦線離脱をしたが、一
緒に航行していた翔鳳丸は阿波で座礁し、乗組員
は船を焼いて陸に逃れた。

 伏見の地では、3日早朝から伏見奉行所に本営を
置く会津藩軍に対して、新政府軍は道路を一本隔
てた場所に布陣し、対峙した。新政府軍の中央には
長州藩軍、西には土佐藩軍、東には薩摩藩軍が
配置した。
 この新政府軍の布陣を見た旧幕府軍の指揮官・
竹中重固は、徳川慶喜が入京するため先発隊が
通過すると新政府軍に使者を送ったが、新政府軍
は朝廷の指示があるまで通せないと要求を突っ返
した。こうして、押し問答がしばらく続いた。

 一方、鳥羽の地では、桑名藩軍や京都見廻組な
どが中心となっている旧幕府軍別働隊が鳥羽街道
を北上していた。これに対して、新政府軍は薩摩藩
軍が中心となって、鳥羽街道の起点である四塚関
門から南下をはじめ、鴨川(かもがわ)にかかる小
枝橋を渡り、東側に布陣した。この場所から旧幕府
軍を迎撃する態勢を取った。

 午後4時ごろになって、赤池まで進軍してきた旧
幕府は、これに対峙する薩摩藩軍に通せと通達し
たが、通さぬと薩摩藩は要請を却下した。
こうして、鳥羽・伏見の地では通過をめぐって、押し
問答が続いた。

 この押し問答にしびれを切らした鳥羽の旧幕府
軍は、幕府大目付・滝沢具挙(たきざわともたか)が
強行突破を決断し、部隊を進軍させた。午後5ごろ
であった。
 旧幕府軍が強行突破を敢行したことを知った薩摩
藩軍は一斉砲撃を開始し、ついに鳥羽・伏見の戦い
の戦端が開かれた。
 街道を進軍していた旧幕府軍に薩摩藩の至近弾
が炸裂し、旧幕府軍歩兵部隊は隊列を乱したが、
見廻組などの刀槍部隊が新政府軍に斬り込んで
行った。旧幕府軍はこの戦闘で甚大な被害を受け
たが、勇敢に戦い続け、夜になっても両軍は激しい
応戦を繰り返した。

 一方、鳥羽街道での砲撃音は伏見にも届き、伏見
の地でも戦端が開かれた。幕府軍は伏見奉行所の
正門を開き、新政府軍に対して白兵戦を展開した。
これに対して、長州藩軍と薩摩藩軍は砲撃で応戦
し、伏見方面の旧幕府軍本営が置かれている伏見
奉行所を激しく砲撃した。
 伏見の地での戦闘では、抜刀して勇敢に斬り込ん
でくる新選組や会津藩軍のために新政府軍は押さ
れぎみであったが、砲撃による巧みな攻撃で、次々
と敵の勇将を討ち取り、旧幕府軍の攻撃は次第に
弱まっていった。
 深夜になると新政府軍の優勢が明白となり、旧幕
府軍は多大な戦死者を出したため、淀城に向けて、
撤退を開始した。

 この戦いで旧幕府軍は、西洋兵器を持った陸軍を
持っていたが、指揮官にこの精鋭部隊を指揮する
能力や知識、経験などが欠落していたため、威力を
存分に発揮させられなかったことが敗因につなが
った。新政府軍はたかだか1000名ほどの小勢であ
ったが、全てが最新式銃と西洋戦術の訓練を受け
ていたため、戦闘が巧みであった。

 翌日4日に再び、旧幕府軍は鳥羽・伏見の地へ進
軍した。伏見の地では旧幕府軍は高瀬川付近で
新政府軍に迎撃され、あっさりと敗走した。高松藩
軍などは攻撃することなく、武器弾薬を放り出して
敗走したという。
 伏見方面では、旧幕府軍はよく善戦して、優勢に
戦況を進めていたが、伏見方面の旧幕府軍を早々
に打ち破った新政府軍が援軍に駆けつけてきて、
伏見方面の旧幕府軍側面を攻撃した。これで陣形
が崩れた旧幕府軍は仕方なく後退し、再び進軍す
ることはなかった。

 翌日5日には、鳥羽・伏見の地から後退して、淀城
を拠点として防戦しようと旧幕府軍は淀の地へと向
かったが、淀藩は旧幕府軍の入城を拒否した。
淀藩は幕府老中・稲葉正邦が藩主であったが、戦
乱を藩内に持ち込まれることを嫌って、旧幕府軍を
見捨てる姿勢をとった。

 やむを得ず、旧幕府軍は木津川大橋を渡って、八
幡・橋本まで後退したが、行き場を失ったことで戦意
は著しく低下した。特に幕府老中から見捨てられた
ことで旧幕府軍は大きな衝撃と失望を受けていた。

 翌日6日には、新政府軍が後退する旧幕府軍を
追撃してきたため、旧幕府軍は応戦態勢を取った
が、味方の津藩から側面を銃撃され、敗走した。
 淀・津藩から裏切られた旧幕府軍は、総崩れとな
り、大坂城まで逃げ帰った。
 あと一歩で、旧幕府を中心とする政権を確立でき
たはずが、旧幕府軍の暴走により、好機を不意に
した慶喜は、旧幕府軍が戦闘中、ずっと大坂城に
こもり、情勢をただ見守るだけだった。
大坂城に逃げ帰った旧幕府軍は、気勢を挙げて、
再度新政府軍と戦う旨を慶喜に伝えた。負けること
がわかっている戦争にやる気が起こらない慶喜は、
自ら旧幕府軍を率いて出陣すると偽って、旧幕府軍
が戦闘準備を成している間に、松平容保らを引き連
れて、密かに大坂城を出て、海路幕府の軍艦で江
戸へと逃走した。
 旧幕府軍の総大将である慶喜が逃亡したと知った
旧幕府軍兵は「こんなことだから300年続いた幕府
を3日で潰してしまうのだ」と非難の声を挙げた。
 旧幕府軍は大坂城を撤退し、江戸へと向かった。
大坂城はもぬけの殻となったが、この時、大坂城中
から金貨18万両を榎本武揚は、軍艦・富士山丸に
運び入れ、江戸へと向かった。

 この鳥羽・伏見の戦いは、徳川慶喜にとっては、
生涯忘れられない悔しい出来事となった。もしも、
旧幕府軍の暴挙がなければ、旧幕府・諸藩の体制
を維持したまま、新政権に参加し、新政権の中で
主導権を慶喜が取れた可能性が高かったからだ。
この時は、西郷ら反幕府派たちは、政権の主導権を
慶喜ら旧幕府側に奪われる危険があった。
 しかし、旧幕府軍の挙兵によって、西郷たちは、討
幕の大義名分を得て、新政府は西郷たちが主導権
を握り、運営していくこととなった。
 その意味で、鳥羽・伏見の戦いは、政権の主導権
争奪戦という裏舞台が隠れていた非常に重要な
政治局面に起こった戦争だった。この戦争によって
、旧幕府組織は解体の一途をたどることとなる。
逆に新政府側は、戊辰戦争を経て、大きな組織へ
と急成長していったのである。





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