赤報隊



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相楽総三、赤報隊を結成す!


 赤報隊を組織した相楽総三(さがらそうぞう)は、
江戸の裕福な郷士・小島家に生まれた。
若年の時から遊学を盛んにし、弱冠20歳にして、
国学・兵学を教える私塾を開き、門下生200人を
集めた。
 時代の流行、尊攘思想に傾倒した相楽は、活躍
すべき藩もなく、薩長両藩の志士たちと親交を深
め、独自の活動を展開する。
 西郷隆盛・大久保利通・板垣退助らと連絡をとり
つつ、関東中心に活動した。鳥羽・伏見の戦いを
誘発させた江戸薩摩藩焼き打ち事件を引き起こし
のも相楽たちの活躍の成果であった。
 相楽たちは、大政奉還後の旧幕府側が新政府
へ反乱を起こすよう仕向ける挑発行動を西郷より
委託され、江戸・関東の地でかく乱作戦を敢行した
のである。

 まず、相楽はかく乱作戦に必要な人材集めをす
ることにし、旧知の同志たちに檄文を送り、相楽の
作戦に参加するよう求めた。ついで、江戸市中を
毎夜歩き回り、浪人や無頼漢たちに喧嘩を売って
は、骨のある人物を作戦の同志に入れた。
 こうして、相楽の集めた同志は数百人にもなり、
それら同志たちに強盗・傷害事件を江戸市中や関
東各地で起こさせ、江戸や関東の治安にあたって
いる旧幕府や関東諸藩を困らせた。
こうして、旧幕府側を怒らせ、江戸薩摩藩邸を幕
吏らに焼き打ちにさせ、自らは大坂へと逃亡し、こ
の旧幕府の挙兵を西郷たちに報告した。

 これによって、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、戊辰
戦争へとなだれ込んでいく。相楽は1868年(慶応4
年)1月に新政府の太政官に建白書と嘆願書を上
申して、自ら東征軍の先鋒となって関東に進軍し
たい旨を表した。この相楽の願いは早速、聞き入
れられ、先鋒隊を組織するよう命令が下った。

 相楽は日頃から好んで用いていた言葉「赤心報
国(せきしんほうこく)」から文字を取って、「赤報隊
(せきほうたい)」と名づけ、近江の愛知郡松尾に
て三隊を編成し、東へ向かって行軍した。
この時、相楽は旧幕府の領土は、みな天皇の所
領となるため、当分の間は年貢半減とする旨を
行く先々で布告し、領民たちの支持を得る作戦を
取った。

 相楽の赤報隊には軍裁として、かつて新選組御
陵衛士(ごりょうえじ)であった鈴木三樹三郎が参
加していた。鈴木は相楽の東進案件を西郷・大久
保たちに伝えたところ、大いに賛成され、今のとこ
ろ東方面には新政府側が手薄であることから、近
江より東進する相楽の部隊は大いに助かると言い
、進発するにあたって、兵器弾薬、軍資金100両が
新政府側から支給された。

 こうして、新政府の東征軍先鋒部隊としての大任
に就いた相楽は、意気盛んにして東へと進軍して
いった。
 だが、相楽の絶頂期はこの時までであった。以
後の彼には、不運続きとなる。相楽が進発してか
ら、10日もたたないうちに、赤報隊が行く先々で強
盗など無頼行為を働いていると噂が立った。
 心配になった新政府は、1月25日に京都へいった
ん引き返すよう、赤報隊に伝令が飛んだ。赤報隊
は一番隊、二番隊、三番隊のほかに別働隊があり
、どうやら別働隊がうまく統制が取れていなかった
らしく、進軍先で無頼を働いていたらしい。
新政府から直々の伝令とあって、赤報隊の二番隊
、三番隊は支持通り引き返したが、相楽の率いる
一番隊だけは引き返さず、そのまま東進した。
 相楽は「戦陣においては君命を待たずという言葉
がある。進軍中においては引き返すべきではない」
と述べ、独断で進軍した。
この相楽の独断行動に新政府は驚いた。赤報隊は
東海道総督府付属でありながら、東山道を進軍す
るなど軍令違反も甚だしかった。
 関東出身の相楽には、東国攻略の要衝地点は、
碓氷峠にあると見て、一刻も早くこの地点を制圧す
ることが、今後の新政府軍の進攻を有利にすると
考え、猛進撃していたのだ。
相楽自身は、たとえ軍令に背いても、戦果さえ挙げ
れば、許されるだろうという甘い考えを持っていた。

 だが、相楽たち赤報隊に引き返し命令を下した新
政府にとっては、許すまじき行為と映った。
赤報隊の無頼行為よりも赤報隊が行く先々で年貢
半減を布告していることの方が問題だった。
新政府は当初、旧幕府よりを諸藩が見せるだろうと
考え、幕藩体制の領民たちを味方に引き入れるた
めに年貢半減を布告する手段を取っていた。
 しかし、朝敵の汚名を恐れる諸藩は、次々と新政
府に抵抗する事無く、新政府側に味方するようにな
った。近畿以西の諸藩は、おおかた新政府側につ
いたため、新政府は年貢半減の政策を必要としなく
なっていた。それどころか、新政府の組織運営には
莫大な資金が必要であり、年貢半減の政策を新政
府の方針と定まってしまうことは何よりも恐ろしいこ
とだった。

 特に新政府が領土安定を見るまでの間、運営資
金を三井などの大商人から融通を受けることになっ
たのだが、三井ら商人側は莫大な資金提供の担保
として、新政府による国内統一が成った時に、その
所領から取れる年貢米を有利な利潤で請け負える
ように条件を出した。
 このため、新政府側は、なんとしても年貢半減の
政策を撤回しなくてはならなくなった。こうなると本営
の言うことを聞かない相楽の赤報隊は、問題を広げ
る元凶のような存在となってくる。ついには相楽たち
赤報隊に偽官軍の汚名を着せて、窮地を脱するし
か手立てがなくなり、苦渋の決断で赤報隊の存在を
切り捨てた。

 2月10日には、新政府側から信州諸藩に対して、
「赤報隊は偽官軍である」との旨が布告された。
この布告が成されていた時、相楽は大垣に滞陣中
の総督府に出頭していて信州の地を留守にしてい
たが、信州に戻ってきてみるとこの布告に愕然と
した。赤報隊隊士たちは大半が捕縛されていた。
 相楽は必死で同志たちの釈放を嘆願したが、聞き
入れられなかった。仕舞いには3月1日夜、軍議のた
め出頭せよと下諏訪の本営から命令を受けた相楽
が本営に出向く途中、突如として伏兵に襲われ、捕
縛されてしまった。
 捕縛の罪状は「勝手に進軍し、諸藩と密談を交わ
した」との軍令違反であった。相楽は弁明する機会
も与えられずに同志とともに雨の中、生きさらしに
され、何の取調べもされずに3月3日、他の同志7名
とともに処刑された。

 新政府運営のため、江戸かく乱や年貢半減など
さまざまな不評行為を犯した相楽をやむを得ず切り
捨てざるを得なかった。また、軍令を無視する行為
は、新政府が秩序だって国内統一戦を展開していく
ためには必要不可欠な要素であった。
徒党を組んだ暴徒の兵乱として、国内を戦火の海
にすることは断じてできなかったのである。新時代
を作り上げるには、規律を厳しくして臨まなくては、
苦労が水泡に帰す場合もある。
 新政府のこうした軍令違反に対する厳しい姿勢は
、その後の戊辰戦争において、軍律を正す指針とな
った。相楽の切り捨ては、非情をもって国内統一を
成し遂げようとする新政府の姿勢を証明する出来事
であった。





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