第二回
勝海舟と西郷隆盛の会見



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戦火を避けた平和的解決


 1868年(明治元年)3月13日、西郷は江戸高輪(
たかなわ)にある薩摩藩邸に入り、幕府全権の勝
海舟との会談に臨んだ。
 勝は当日、羽織袴の姿で馬に乗り、従者一人を
連れて、薩摩藩邸に入った。部屋に入った勝が
しばらく待っていると、庭の方から西郷が古びた
洋服に下駄をつっかけて、やはり従者一人を連れ
てやってきた。
 「遅れまして、失礼」と挨拶した西郷が部屋に入
ると両者は久しぶりに会った事の挨拶と、静寛院
宮(せいかんいんのみや※和宮)の保護について
話し合った。

 翌14日に再び会談が設けられ、すでに予備折衝
として駿府で山岡鉄舟と西郷の間で取り交わした
約定について、議論が成された。
 その時にもめた第一条の徳川慶喜を備前藩に
預けるという項目を水戸に隠居して謹慎するという
内容に改正された。
 それ以外はほとんど西郷が提示する要求を幕府
側が飲むことに決まった。ただ、治安維持という名
目で幕府側にわずかな武器装備が許された。

 西郷はこの会談で取り決めた内容を大総督の
許可を得るためにすぐさま駿府に使者を出し、
翌日に迫った江戸城総攻撃の中止を命じた。
 この一連の議題が済んだ後、西郷と勝はまた
友人同士の会話を成し、会談終了後は、西郷が
勝を見送りに外まで出て、両者は別れた。

 勝はこの会談で西郷が取った礼儀を失わず、勝
者振ることもなく、敗軍の将に接するようなところ
が少しもなかったと賞賛している。

 西郷はこの会談の一ヶ月ほど前までは、江戸城
総攻撃を断固遂行する考えでいた。しかし、この
考えを揺るがす衝撃的な外交があった。
 イギリス公使・パークスが西郷に将軍・慶喜の
処遇をどうするのか尋ねたところ、西郷が「大逆
無道、その罪は死にあたるをもってす」と意気込ん
で答えると、パークスは「どこの国の法律でも、恭
順し、降伏する姿勢を見せているものに更なる攻
撃を加える法はない。まして徳川氏はこれまで
天下統治の政権運営を300年も続けてきた。
その徳川氏をあくまでも討ち滅ぼすというのであ
れば、英仏は合同して徳川氏を助け、新政府に
攻撃を加える」という手厳しい非難を西郷に浴び
せた。
 この意外にも諸外国が示す徳川氏に対する寛
大処置要求を西郷は、重く受け止めた。これを
契機として、西郷は慶喜の断罪回避を模索する
ようになり、勝が幕府全権となったことを知ると、
これにて江戸強攻策が撤回できると喜んだ。

 一方、勝は江戸無血開城がなるかどうかまったく
予見できないため、平和的解決交渉に全力で取り
組む考えには変わりはなかったが、もしも和平交
渉が失敗した時のためにあらゆる手を尽くすことを
していた。
 まず、諸外国より伝え聞いていたフランスの皇帝
・ナポレオンがロシアの首都・モスクワに侵攻した
時にロシア側がとった焦土作戦を江戸でも実施す
る計画を立てた。
 この作戦は、敵軍が市街地に侵攻してきて、市
街を焼き払う前に先手を打って防衛軍側が市街に
火を放ち、その火力をもって敵軍の侵攻を阻もう
という戦術。
 この作戦実行にあたって、勝は父・小吉以来、
江戸の火消したちと顔なじみを活かして、新門
辰五郎(しんもんたつごろう)ら江戸火消し衆に頼み
込んで、官軍が江戸へ進軍してきた時には、江戸
市街を焼き、官軍に対してゲリラ戦を展開するよう
協力を要請した。

 ついで、江戸市民を戦火から守るために避難用
の舟を大小のこらず江戸の河川に集め、搬送手段
を確保した。
 火つけようの道具をそろえるために莫大な資金
も幕府より出費させて、準備万端、整えて交渉に
あたった。
 この時に用意した火つけの道具が後に江戸無血
開城がなって、江戸に入ってきた官軍に見咎めら
れ、いらぬ嫌疑をかけられたらしい。

 また、前将軍・慶喜の身を守るために横浜に停
泊していたイギリス艦隊に慶喜を乗せ、政治亡命
させる方法も計画されていた。

 これら勝が幾重にも備えを成した策謀はすべて、
江戸無血開城によって、無駄となったが、幕府側
が官軍との交戦に備えて、首尾よく防衛体制を
整えていたことで江戸市民に多少の安心感を与
える効果にはなった。

 ただ、江戸市民としては無血開城となっても生活
不安を抱えていた。特に日本政治の中心という
位置づけから離れたことで、江戸市民の収入口を
どこに求めるべきか深刻な問題となっていた。
 江戸城を受け取った西郷側も江戸を開城後に
どうするのかまったく提示がなく、ただただ治安維
持を勝に任せるだけであった。
 そのまま西郷は東北戦線へと進発してしまい、
江戸の将来はいまだに未定のままとなっていた。
そんな情勢にあたって、勝は新政府で手腕を振る
う大久保利通に目をつけ、江戸の現状を詳細に
報告し、江戸の将来について危惧することを訴え
た。
 大久保はこの勝の意見をよくよく考慮し、ついに
は無傷の大都市機能を日本の近代化に役立たな
いかと鉱脈を見出す。
 大久保は初め、新政府が誕生した当初から京都
から遷都する候補地を探していた。そして、大坂を
新たな国政の中心と成すことを新政府内に提言し
たが、受け入れてもらえずにいた。
 そんな折に勝から江戸無血開城によって、江戸
の将来を危惧する訴えを知った大久保が江戸遷
都に動いた。
 結果的に江戸遷都がなり、都市名も東の京とい
う意味で”東京”と改称し、新たな近代日本の首都
となったのである。

 後に勝はこのいきさつを踏まえて、「江戸が無事
に終わったのは西郷の力、東京が今日に至って
繁盛しているのは大久保の力」と賞したという。





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