江戸無血開城



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幕末史に残る偉大な平和的解決


 東進を敢行する新政府軍は、3月15日を江戸総
攻撃の日取りとしていた。
新政府内では、江戸総攻撃を強硬に進める者と
穏便に平和的解決を望む者と意見が分かれて
いた。
 江戸総攻撃を成し、徳川慶喜を死刑に処すこと
を強硬に主張したのは、薩摩藩の西郷隆盛・大久
保利通らであった。慶喜の死をもって、幕末動乱
に終止符を打つ考えであった。
 それに対して、岩倉具視や木戸孝允などは、慶
喜の助命を主張する、寛大論者であった。徳川家
存続を天皇に奏上している。

 幕府側では、強硬に徹底抗戦を主張する小栗忠
順(おぐりただまさ)らと徹底恭順を主張する勝海舟
・大久保一翁(おおくぼいちおう)らに意見が分かれ
ていた。
 勝は熱心に恭順論を説き、その主張に納得した
慶喜は、勝を陸軍総裁に任命して、事実上の幕府
全権を委ねた。勝は、謝罪恭順を新政府に見せる
とともに、現在の幕府が置かれている状況を新政府
側に理解させる必要に迫られた。
 それは、幕府の統制は必ずしも、勝一人が掌握し
ているものではないということであった。徹底抗戦を
主張した小栗忠順は、勝の謝罪恭順案に敗れると
幕政を退き、自領で兵団を募るなど不穏な動きをし
ていた。また、江戸近辺でも幕府の弱腰を不満に思
う旗本などが狼藉を働き、これに民衆も加わって、
打ちこわしや一揆を起こしていた。

 こうした、幕府が統制できない暴徒が多数いること
を新政府側にわからせ、幕府の謝罪恭順が偽りの
ないことを示す必要があった。
そこで、勝は山岡鉄舟を使者に抜擢し、前に起きた
江戸薩摩藩邸焼き打ち事件で捕縛されていた薩摩
藩士・益満休之助を釈放し、山岡の案内役とした。
 こうして、山岡は幕府の使者として、新政府軍に
赴き、新政府の東征軍参謀となっていた西郷隆盛
と面談した。西郷と山岡の話し合いの結果、後日に
幕府全権の勝海舟が西郷と会談し、江戸と慶喜の
処置を決めることとなった。

 こうして、3月15日決行とされていた江戸総攻撃は
土壇場で中止となり、20日には政府会議が開かれ、
徳川家存続という方針で処分案が決められ、慶喜
は死一等を減ぜられ、水戸藩へ隠退と決した。

 西郷・大久保が厳罰をもって望んでいた慶喜に対
する処置は、急きょ寛大論へと変化したが、これに
はイギリス公使・パークスの働きかけが大きく影響
していたらしい。
 慶喜らに対して苛酷な処分が成されれば、欧米諸
国は日本の新政府を非難し、心証を悪くするだろう
とパークスが忠告していたのだ。元々、将軍として
一時期の間、国政を取り仕切り、欧米諸国にその名
を知られていた人物を早計に処断するのは、ことの
道理を著しく欠く行為であると外国人は考えていた。

 この慶喜の知名度と外国人の知識人に対する処
遇の扱い意識が、新政府の強硬論から寛大論へと
変化させる大きな要因となったのである。
 4月4日に勅使一行が江戸城に入り、勅命を伝え、
11日には、官軍諸隊が江戸入城を果たし、城の明
け渡しは完了した。この日に慶喜は、大慈院を出て
、水戸に向かい、政局の表舞台から隠退したので
あった。






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