寺田屋事変



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壮絶!寺田屋事変


 西郷は、京都伏見にある船宿・寺田屋に赴いた。急進派尊攘の薩摩藩士たちを説得し、挙兵を断念させるのが目的である。
 徹夜で西郷は、有馬新七ら突出組を諭し続けた。しかし、同志たちは頑として西郷の言う事を聞かない。それどころか、逆に「俺たち精忠組の若者に最高の指導者と仰ぐ西郷さんが、いったい何を言い出すのだ!?」と西郷に食ってかかる始末だった。
 有馬新七、橋口壮介、柴山愛次郎ら9名からなる突出組は、久光公の出兵を尊攘軍立つ!とはやガッテンして、その先駆けになろうと決起しようとしていたのだ。

 しかし、西郷はその無謀さを有馬らに説き続けた。久光公がそんな暴徒と化した藩士たちの言う事を聞き届けるような度量を持ち合わせては居ないと懸命に説得する。彼らが決起すれば、みすみす若い命を捨ててしまう。その憂いがその時の西郷を支配していた。

 だが、有馬らは「西郷さんは久光公が嫌いだから、そんなことを言うのだ!」と反発し、「現に久光公は藩軍を率いて京都に来るではないか。必ず我らの尊攘の想いを理解してくださる!」とみな口をそろえて主張した。
 「そんなことはなか!久光公がおはんらの気持ちを理解するような度量も器量もなか!」西郷も激しく怒鳴り返したが、ついに話は決裂した。
 「いったい西郷さんは、我らの所に何しに来たのか?そんな愚なことばかりいうのなら、もういつまでも話していたって仕方が無い。とっとの帰ってくれ!」有馬たちは英雄と仰ぐ西郷に見切りをつけてしまった。

 西郷はがっくりと肩を落して、帰らざるを得なかった。(どうしてこうも、彼らは頑固なのか。)久光の厳命に背いてまでも彼らの暴挙を抑えようと必死に説得したが自分の力説も通用しない。
 ここまで志士たちの挙行は激しさを増しているのか、と西郷は心底時代の変化を感じた。西郷は暗い気持ちのまま兵庫まで戻ってきた、その地でバッタリと大久保と出合った。大久保は顔が青ざめ、苦渋の表情を浮かべていた。
 「どうした。」と西郷が聞くと、大久保は「どうしたもこうしたもない。久光公はおはんに怒り心頭だ。」大久保は苦しい顔で西郷に言った。「なぜ、馬関で待てなかった。久光公はおはんを島流しにすると決めた。俺はそれを知らせに先にここへ来た。」この大久保の知らせに西郷はア然とした。必須、久光公のためにやった説得工作を久光は急進派藩士たちを扇動しに京都へ行ったと思っている。
 「それは勘違いだ。急進派の藩士たちを懸命になだめ、今の今まで説得にあたっていたのだ。俺は久光公のために京へ赴いたのだぞ!」西郷は声を荒げたが、もうどうにもならなかった。
 久光の威光を傷つけた西郷の無謀な行動は、久光にとって、理解の余地がない行動だった。

 この時、大久保は西郷と刺し違えて死のうとまで言い出した。すでに自分も西郷の帰藩を主張した手前、久光公の信頼を失ってしまった。もはや、藩政への参加も成せないだろう。大久保の苦渋の決断だった。
 しかし、西郷は違っていた。自分が藩政から離れたとしても、今の薩摩藩には大久保は欠かせない人材だ。大久保までも失えば、薩摩は尊攘の荒波に飲み込まれ、潰えてしまうだろう。
 西郷は島流しのため船に乗り込んだ。村田新八と森山新蔵とともに島流しの刑に処されたのだ。
 大久保の心配とは裏腹に久光は大久保を手放さなかった。京都に上って幕府に攘夷を強請する政治工作には大久保のような知恵者が絶対不可欠だったからだ。そのため、西郷の一件は西郷自身の暴挙という形で処理され、大久保ら精忠組にはなんらおとがめがなかった。

 藩兵1000余人を率いて、京都へ入った久光は、過激な尊王攘夷を唱える諸藩の有志たちと親交してはならないと厳命を下した。
 久光は封建秩序を乱す急進派志士たちを危険因子と考え、禁圧的な態度で対処した。あくまでも封建秩序内での運動で幕府改革を成し、公武合体を実現させるのが目的であったのだ。

 諸藩から尊攘の有志たちが久光公上洛を契機に京都へ続々と乗り込んできた。彼らは久光の強硬な姿勢を評価し、攘夷実行にはやった。
 しかし、久光は「乞食同然の浪士が政治に口出すなど、けしからん!」と険悪視して、浪士たちを毛嫌った。これには、久光に過大な期待を抱く志士たちを落胆させた。

 京都入洛を果たした久光は、薩摩藩士の行動を厳しく制限していたので、伏見・寺田屋に集結する急進派藩士たちの行動が目立ち始めた。
久光はこの急進派藩士たちを取り押さえてでも、連れ戻し、即刻国元へ送還するよう命じた。
 奈良原繁(ならはらしげる)、道島五郎兵衛(みちじまごろべえ)ら剣術に長ける精強な藩士を選抜し、寺田屋の鎮撫に当たらせた。
 藩命の聞き入れぬ場合は上意討ちもやむなしと奈良原たちに命じていた。奈良原たちが寺田屋に到着すると早速、玄関口で口論が始まった。
 有馬ら急進派藩士たちは頑として藩命に従わない構えを見せたため、道島が「上意!」の一喝とともに田中謙助を斬り捨てた。
 これを皮切りに薩摩藩士同士の凄まじい斬り合いが開始された。この壮絶な斬り合いで鎮圧部隊の道島が討ち死にし、急進派側でも有馬、柴山ら6名が討死した。残り2名が重傷を負うという熾烈を極めた結果となった。
 これによって、薩摩藩の急進派中心人物たちは撃滅させられたのである。
 生き残った者は国元へ送還されたが、田中謙助と森山新五左衛門だけは藩主の使者に抵抗したとして、切腹を命じられた。
 森山新五左衛門の死を知った森山の父・森山新蔵は、大坂から船で国元へ送還される途中で、自殺して果てた。
 これら一連の騒動で薩摩藩は優秀な人材を幾多にもわたって、失うサンザンな結果となった。






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