1868年(慶応4年)2月、慶喜が謝罪恭順を決意し 、上野の寛永寺大慈院に謹慎蟄居すると旧幕臣 の一派が、慶喜の身を守ろうとする運動を始動し、 幾度となく浅草本願寺で会合が開かれた。 この会合では130名ほどの同志が集まり、慶喜 の身を護衛しようとする目的を持ち、部隊を結成 した。席上で彰義隊と命名され、頭取には渋沢 成一郎(しぶさわせいいちろう)、副頭取には天野 八郎が決まった。渋沢は純粋に慶喜の身を守る ことだけを考え、新政府側と事を構える行動は慎 んだ。 しかし、天野八郎は、新政府軍と再度決戦を望 む好戦派であった。彰義隊は、当初から慶喜守衛 を目的とする一派と新政府軍と好戦を望む一派に 分かれていた。 このころの江戸市中では、徒党を組む旧幕臣た ちが闊歩し、市内は不穏な動きに満ちていた。 集団数は300を超え、「大手前大隊」などは馬丁や 火消しなど民衆も加えて、2千名を超える大所帯を 構えていた。 この旧幕臣たちの集団の取り扱いに頭を抱えて いたのが勝海舟であった。勝は当時、幕府総裁と なっており、事実上の幕府全権を持つ幕府の最高 責任者だった。勝は、江戸無血開城後も江戸市内 の治安権を西郷たち新政府側から任されていた。 西郷たちは、新政府側が旧幕臣たちを排除しよう とするとたちまち江戸が戦乱となると考え、勝たち 幕府側が旧幕臣たちの処置を取るのが平穏無事 に済むと見て、勝たちに旧幕臣たちのことを一任 していた。 勝が困ったのは、ただの無法者の集団ではなく、 徳川家のために徒党を組んでいるという点で、簡 単には敵視することができない存在だったのだ。 彼らの主家を思う心情を踏みにじって、解散させる だけの強い権勢をいまの旧幕府組織は持っていな かった。そこで、勝は旧幕臣たちの俸禄や物資供給 を停止するなど様々な手段を行って、徒党の解散を 促した。 これによって、かなりの数の集団を解散させること に成功したが、逆に彰義隊は、熱心に幕府上層部 へ働きかけ、慶喜警護の役目を任されることに成功 している。言わば、彰義隊は幕府公認の部隊となっ たのである。 それまで、慶喜の警護の任には、山岡鉄舟が率 いる精鋭隊と見廻組があたっていたが、彰義隊も この任に加わった。そして、幕府との縁が深い上野 を拠点に置き、江戸市中の取り締まりを勤めた。 こうして、彰義隊の名が知れると彰義隊に入隊す る者が日増しに増え、ついには3000人以上の大所 帯を形成した。 4月11日、江戸城が無血開城を成すと、慶喜はこ れを契機に政局の表舞台から退くべく、水戸藩へと 旅立った。この慶喜の行動に彰義隊内部は二つに 分断した。 渋沢たちもと一橋家家臣たちは、慶喜を警護する ために江戸を離れ、水戸に向かうべきことを主張し たが、天野八郎らは、これに反対し、江戸に留まる ことを主張した。意見はまとまらず、ついに渋沢た ちは彰義隊を脱退して、日光まで行き、そこで振武 隊を結成した。 こうして、渋沢たちが去った彰義隊は、好戦的な 天野八郎らが主導権を握り、上野でますます盛況 振りを現した。新政府統治下となった江戸近辺で 旧幕臣たちが徒党を組んで盛況するのを快く思わ ない勝は、山岡鉄舟を使者に立て、上野東叡山 の実力者・覚王院義観(かくおういんぎかん)の協力 を得て、彰義隊を説得し、解散させようと試みた。 しかし、逆に義観は使者にやってきた山岡を徳川 家に恩義を報いない逆臣呼ばわりをして、協力しな い旨を伝えた。義観は、上野東叡山が徳川幕府に よって、開山された経緯を知っており、徳川家のた めには、新政府と一戦交えることも辞さないと考えて いた。 彰義隊の説得工作は初手から大いにつまづき、 仕舞いまで頑固一徹な彰義隊の説得工作は、成功 することがなかった。 こうした旧幕臣たちで組織された彰義隊が不穏な 動きを見せていることを知った朝廷は、江戸の視察 から戻った江藤新平の報告を受け、ついに武力に よって、鎮撫することを決し、岩倉たちは幕末におい て、軍略の才随一と称えられる大村益次郎を呼び、 江戸市中の秩序回復を図るよう命じた。 軍防事務局判事という肩書きを得た、大村は江戸 へ向かい、着いた早々から、軍議を開いて善後策 を議論した。 薩摩藩士で西郷とともに東征軍の軍務に携わって いた海江田信義と大村は馬が合わず、連日のよう に大激論を交わし、激しく対立した。 ついには西郷の弱腰政策を非難し、大村は西郷 に代わって東征軍の全権を掌握した。大村は平和 的な懐柔策を捨て、彰義隊を市中取り締まりの任か ら解き、討伐の準備を進めた。 海江田信義は、彰義隊が篭る上野の拠点を攻め るには、いま手元にある軍勢の10倍は必要と主張 したが、大村はこれを斥け、現行の軍勢のままで 討滅戦を行うことに決した。 また、夜襲策が提案されていたが、これも排して 、朝命による討伐には白昼堂々と戦うのが原則と 述べ、白昼戦で一日にて決着をつけるとした。 大村は、彰義隊は規律によって動く部隊ではなく、 義によって動くことを知り、新政府軍は正々堂々と 彰義隊に戦いを挑むと明記した挑戦状を江戸市中 に布告し、上野の彰義隊拠点にも伝令した。 決戦日時まで敵方に報せた大村は、なんとしても 江戸市中にまで戦火が広がることを食い止めるた め、極めて特異な作戦を立てたのである。 5月15日は、前もって大村が提示していた決戦日 で、上野の彰義隊の拠点には、3000名もの彰義隊 士が集結した。 新政府軍は上野を正面の黒門口と背後の団子坂 、側面の本郷台の三方向に布陣し、東の三河島方 面だけは、逃げ口として空けておいた。逃げ口を設 けることで、敗走者が江戸に舞い戻ることを防ぎ、 探索の手間を省くという利点を得られる。 本郷台には、佐賀藩が誇るアームストロング砲が 設置された。このアームストロング砲は、軍艦に設 置する大砲であったが、これを佐賀藩が陸戦ように 改造し、この上野戦争ではじめて実戦使用したので あった。 後方の団子坂には長州藩・大村藩・佐土原藩の三 藩軍が設置され、長州藩軍には最新式のスナイド ル銃が装備された。 そして、この上野戦争で最も激戦が予想される正 面の黒門口には、薩摩藩・因州藩・肥後藩軍が配置 された。 こうして、各部隊が戦闘配置が完了し、5月15日早 朝から激しい戦闘が開始された。天気は雨が降って おり、まさに泥沼の激戦模様となった。黒門口は初 手から激しい戦闘となり、正面を突破しようと薩摩藩 軍が突撃し、彰義隊も主力部隊を黒門口に集結さ せており、激しい攻防戦が続いた。 戦闘の前半は彰義隊が黒門口に新手の部隊を次 々と投入したことから、彰義隊優勢となり、白兵戦で はしばしば薩摩藩軍を押し返す勢いを見せた。 この前半の黒門口戦闘の最中、後方から攻め込 む役目を負っていた長州藩軍は動くことができなか った。それは、新しく実戦配備された最新鋭・スナイ ドル銃の使い方がわからず、一時の間、本郷台へ 退いて練習をした上で、再び配置に戻り、攻撃戦に 加わるという失態を演じた。 一方の本郷台に配備された佐賀藩も最強兵器・ アームストロング砲を戦闘開始と同時に砲撃開始 をしたが、命中率が悪く、ほとんどが不忍池に着弾 し、敵方に被害を出すことができなかった。 そうこうしているうちに戦闘の後半に突入するとよ うやくアームストログ砲の砲撃が敵陣地に命中する ようになり、ついには彰義隊砲兵陣地を壊滅させる に至ると、彰義隊の攻勢は弱まり、午後に入るころ には、彰義隊は完全な守勢に転じていた。 そして、黒門口も突破されると彰義隊からは、逃亡 者が相次ぎ、これを見た新政府軍は一斉突入に踏 み切り、防戦しきれなくなった彰義隊は敗走した。 こうして、上野戦争は大村が計画を立てた通りに 進み、わずか1日で終了し、戦火は江戸へ飛び火す ることなく済んだ。この戦いで大村は天才軍略家の 声望を高め、一方の旧幕府側の勢力は極小化して いった。 |