会津藩の軍備強化

会庄同盟の締結



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激戦 会津戦争を支えた軍備強化


 1868年(慶応4年)1月17日、新政府は会津藩追
討を奥州仙台藩主・伊達慶邦に命じた。
この情勢を受けて、会津藩主・松平容保は2月16
日に江戸を発し、22日に会津若松城に帰藩した。

 新政府の会津藩追討命令が下るとこの討伐軍
を迎撃するために容保は、江戸を去るにあたって
、武器商人・エドワード・スネルから、武器弾薬を
大量に購入し、会津藩の軍備増強を図っている。
また、旧幕府軍の抗戦派と連携を取り、軍資金や
大砲・洋式銃などを手に入れて、会津藩へ持ち帰
った。

 帰藩した容保は、藩全体に対して、軍事優先を
提唱し、藩全体が結束して、藩の汚名をそそぐよう
諭告文を発した。これより会津藩は、新政府に対し
て、徹底抗戦の構えを見せたのである。

 抗戦完遂に決した会津藩は、3月に入ると、これ
までの長沼流兵法を止め、西洋軍制を採用し、
藩軍編成を断行した。これまでは番頭中心の編成
部隊であったが、年齢別による編成部隊に改め、
白虎(びゃっこ)・朱雀(すざく)・青龍(せいりゅう)・
玄武(げんぶ)の四部隊とした。
 これらの部隊名は、中国の孫子の兵法書に出て
くる軍神にちなんだでつけられた。主力部隊となる
朱雀隊の兵力は1200人、青龍隊が900人、玄武隊
が400人、白虎隊が300人であった。これら四部隊
は、さらに身分的階級別をして、士中・寄合・足軽
の三つに編成した。

 この四部隊のほかに敢死隊(かんしたい)250人
、遊撃隊180人、屈強な郷士による農兵精鋭部隊
である正奇隊80人、領内の山伏による修験隊(し
ゅげんたい)80人、力士隊150人、猟師隊120人な
どが組織編成され、これら諸隊の総計は7000人に
達した。

 会津藩の所有していた小銃は4000挺余りで、そ
の半数が戦国時代から受け継いでいた火縄銃で
あった。他の大部分も先込め式のゲベール銃で、
新政府軍が所有する新鋭小銃から比べると、精度
や連射速度などで大きく劣っていた。

 会津藩の装備とは対照的に新政府軍の装備は、
先込め銃でも命中精度が高いミニール銃やエンフィ
ールド銃を装備し、上野戦争以来、配備された最新
式の元込め銃であるスナイドル銃・シャスポー銃・
スペンサー連発銃などもあった。

 大砲については、両軍ともに大砲筒の前から砲弾
を装てんする四斤野砲が主体で、会津藩はそれを
50門以上装備し、新政府軍は100門以上装備して
いた。
 さらに新政府軍には、佐賀藩所有の最新式対艦
砲であるアームストロング砲が陸戦用に改良されて
配備されていた。射程距離は3000mにも達し、その
破壊力は上野戦争で初めて実戦使用され、立証済
みである。

 旧式兵団から西洋式兵団へと急発展を進めてい
た会津藩であったが、その最中の3月19日に奥羽
鎮撫総督・九条道孝と副総督・沢為量(さわためか
ず)が、総督参謀・大山綱良、世良修蔵、醍醐忠敬
(だいごただゆき)を伴って、仙台藩領の松島湾に
上陸した。朝命によって会津追討を行う仙台藩を
直接指揮するために仙台藩に赴任してきたのだ。

 仙台藩はこの時、長年に渡って隣藩として友好関
係にあった会津藩を攻めるべきかどうかで藩論が
二分したが、朝命とあっては仕方なく、3月下旬から
会津藩境に向けて、藩軍を進発させた。

 仙台藩がようやく動き出した頃、出羽では、庄内
藩が旧天領の村山郡寒河江(さがえ)や柴橋一帯
の村々を襲撃して、年貢米を奪い新政府への反発
姿勢を明確にした。これに対して、奥羽鎮撫は秋田
藩に庄内藩討伐を命じ、秋田へ奥羽鎮撫副総督の
沢為量と参謀の大山綱良を向かわせた。

 こうして、会津藩と庄内藩はともに追討対象となり
、これを契機として会津藩と庄内藩は互いに協力し
合うことを決め、4月10日に庄内藩重役・松平権十
郎と会津藩士・南摩綱紀(なんまつなのり)らが会合
を持ち、会庄同盟が結ばれた。

 奥羽地方が同盟による連携態勢を強めると新政
府側は、4月11日に江戸無血開城を成すと早々に
関東全体へ進軍し、四月下旬には宇都宮付近まで
達し、奥羽掃討を目の前とした。





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