長岡城の攻防



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北越戦争 河井、大抗争を成す!


 奥羽越列藩同盟に加盟した長岡藩は、河井継之
助を総大将とする徹底抗戦を成した。当初は新政
府側に恭順の姿勢を見せ、争乱防止を望んだが、
新政府側の横暴により、やむを得ず、大抗争戦を
展開す。
 長岡藩は藩境の拠点を新政府より奪取し、戦局
を有利に進める作戦に出た。列藩同盟により、会
津・桑名藩軍が援軍に駆けつけ、戦力は倍増して
いた。
 戦局を左右する要衝地を長岡の南方に位置する
榎峠(えのきとうげ)と見た列藩同盟軍は、長岡藩
軍と会津藩の佐川官兵衛・萱野右兵衛(かやのう
へえ)らが率いる部隊とで包囲攻撃することとに
した。列藩同盟軍に包囲攻撃された新政府軍は
たまらず敗走し、榎峠は列藩同盟軍が占拠した。

 榎峠陥落の日、北陸鎮撫総督参謀の山県狂介
(やまがたきょうすけ※有朋)は、小千谷(おぢや)
戦線が苦戦していると報告を受けて、時山直八
(ときやまなおはち)とともに奇兵隊を連れて小千
谷本営を視察に行った。
 そこでは軍監の岩村精一郎がのんきに食事など
して、くつろいでいたため、山県は失望して、自ら
陣頭指揮を取り、時山直八に榎峠に連なる朝日山
を攻撃させ、奪取するよう命じた。
 ところが、思ったよりも列藩同盟軍の防衛線は厚く
時山は援軍を待たなければならなかったが13日に
なって、時山はしびれを切らして攻撃をかけた。
だが、長岡・桑名連合軍に猛反撃を喰らい、時山も
被弾して倒れ、時山部隊は敗北した。
 この敗戦を受けた新政府軍は、小千谷に退き、
以後は信濃川をはさんでにらみ合いとなり、持久戦
へともつれ込んだ。

 苦戦を強いられた山県は、海道軍軍監・三好軍太
郎の部隊に長岡城を攻撃し、列藩同盟軍の防衛線
を打ち破ろうと計画した。
 18日に三好が率いる薩摩・長州・高田・加賀など
諸藩部隊2000が濃霧に乗じて、小舟で信濃川を渡
り、長岡城攻めを敢行した。

 この新政府軍による長岡城攻撃の急報は、摂田
屋の本営で軍略を練っていた河井継之助に耳に届
いた。河井は防衛線の要所である長岡城を落とさ
れては、まずいと考え、連射砲のガトリング砲二門
を持って、戦場へと急行した。
 河井は自らこの新鋭砲を操縦して、殿(しんがり)
を務め、城の外堀にかかる内川橋付近で激しく応戦
した。だが、河井は応戦中に左肩を負傷し、城内に
退いた。

 河井は徹底篭城を考えたが、長岡城は攻略され
やすい平城であり、その上、藩の精鋭部隊は榎峠
方面を守備しており、城の守備兵はわずかで、あと
は15歳以下の少年と50歳以上の老人たちだけで、
兵力も欠いていた。
 仕方なく、河井は藩主・牧野忠訓と隠居の忠恭を
城から脱出させ、本丸に火を放って、自らは栃尾に
退却した。

 長岡城が陥落したことで、再度戦局の見直しを迫
られた河井は、各地に散らばっていた長岡藩軍を
一度集結させ、5月21日に本営を加茂に移した。
 長岡藩軍・会津藩軍・米沢藩軍・旧幕府軍衝鋒隊
などの諸隊を大きく三つに分け、新政府軍を両翼に
引き付けておいて、中央部隊が正面中央に布陣す
る三好軍太郎の本営・今町(いままち)を撃破する
作戦を立てた。

 6月2日、作戦はみごと成功をおさめ、4時間ほど
の激戦の末、新政府軍本営・今町を奪取した。
この列藩同盟軍の巧みな戦術に敗北した新政府軍
は、新たな援軍が補充されるまで、むやみな攻勢を
避け、防衛線を布いた。これにより、両軍はにらみ
合ったまま戦線は、こう着状態と化した。

 その間に新政府側は、着々と兵力の増援作業を
進めた。新たに朝廷より会津征討越後総督に任命
された仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあき
しんのう)が3000の軍勢を率いて、7月15日〜21日
にかけて、越後の柏崎に上陸を果たした。この部隊
とともに兵器弾薬も供給され、新政府軍は息を吹き
返したのであった。

 増強された新政府軍は、新たに戦略を練り、薩摩
藩軍が列藩同盟の拠点となっている今町を攻め、
長州藩軍が栃尾を攻めることが決まり、決行日を
7月25日とした。

 一方の列藩同盟軍は、新政府軍が新たな部隊増
強を成したことを受けて、先手必勝とばかりに7月
20日に長岡城奪還作戦を敢行しようとした。
しかし、決行当日は豪雨のため、やむなく中止とし、
改めて24日に奪還作戦を敢行した。
 7月24日の夜に河井は長岡藩軍700名を率いて、
八丁沼を渡って、長岡城を目指した。八丁沼は長
岡城の北東に広がる大沼沢地帯で、泥沼の深み
に足が取られて、行軍が困難な場所であった。
 河井はあえて、この行軍が困難な場所を選び、こ
の道筋ならば敵軍は天然の要害として守備を手薄
にしているに違いないと考え、絶好の攻撃場所と見
定めたのだ。

 沼に足を取られぬように部隊兵には、みな命杖と
なる青竹を持たせて行軍させ、標識を立てて後続
部隊を導いた。行軍中に月光が部隊を照らせば、
あぜ道に伏し、月光が雲でさえぎられれば、その
暗夜に乗じて行軍した。

 全軍が沼を渡り終えると河井は総攻撃を全部隊
に命じ、激しい銃撃戦が始まった。不意をつかれた
新政府軍は、天然の要害を見越して守備が手薄で
あったことも手伝って、たちまち敗走し、長岡城奪還
作戦は大成功をおさめた。

 長岡城が敵方に奪還されたことを知った新政府軍
は大いに奮起して、巻き返しの攻勢を始めた。市街
地戦が展開され、河井は新町口で戦う部隊を救援
すべく急行したが、その途中で敵弾が河井の左ひざ
を直撃した。
 重傷を負った河井は、指揮を取ることも難しくなり
、これを契機に列藩同盟軍の士気は低下し、応戦
力も鈍り出した。

 長岡藩軍総大将の河井が重傷を負ったその日、
柏崎を出航した新政府軍1200が新潟湾松ヶ崎に
上陸し、列藩同盟軍の背後を突く作戦に出た。
 この新政府軍の突然の渡航作戦に驚いた同盟軍
側の新発田藩はあっさりと新政府側に寝返り、27日
に新潟が新政府軍の手に落ちた。29日には長岡城
も再び新政府軍の猛攻にて陥落し、列藩同盟軍は
戦況不利と判断して、会津へと落ち延びていった。

 河井の重傷は悪化の一途をたどり、会津藩領に
入って、再起を願うも8月16日に塩沢村の医師・矢
沢宅にて没した。
 長岡藩軍総大将の河井が没したため、再び越後
奪回の作戦は、実行不可能となり、会津藩による
最後の防衛線が奥羽の地に布かれることとなった。




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