会津若松城の攻防



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会津城下町で起きた惨劇


 二本松を占領した新政府軍は、会津藩の本拠地・
会津若松城まで60Kmと迫るとこの道のりを一気に
進撃し、3日後には会津若松城下に突入した。

 新政府軍の素早い動きに驚いた会津藩軍本隊は
、滝沢の本陣を引き払い、会津若松城へ戻った。
途中で松平容保は実弟の松平定敬を米沢に逃がし
、自らは城内で篭城の準備指揮に尽力した。

 城下に突入した新政府軍は、城を孤立化させる
ために藩士の邸宅や民家を放火した。このため、
会津藩は早鐘(はやがね)を打ち、藩士の家族たち
を城内に入れようとしたが、思った以上に家族たち
の移動は遅れた。また、藩士の家族の中には、集
団自決をするものも出た。

 戊辰戦争の中でも、凄惨を極めたこの会津戦争
は、会津藩軍の戦死者が460人に達し、これに殉じ
た家族は230余人にのぼった。夕方に入ると新政府
軍は会津若松城を包囲し、篭城戦が展開された。

 若松城の東南にある小田山を占領した新政府軍
は、肥前藩が所有する破壊力抜群のアームストロ
ング砲など5門を山上に据え付け、城目掛けて激し
い砲撃を開始した。
 この無差別砲撃は数日間続き、藩士のほかに子
女、老人も多数死傷し、凄惨を極めた。8月29日に
佐川官兵衛が率いる1000余人の会津藩軍が城外
へ撃って出て、新政府軍に最後の反撃を試みたが
軍事力に差がありすぎて、多数の精鋭を失い敗退
した。

 9月に入ると米沢藩、仙台藩が次々と降伏し、列
藩同盟の盟主である両藩が崩れた。こうして、会津
藩は完全に孤立した。
 9月22日に会津藩は大手門に白旗を掲げ、1ヶ月
続いた篭城戦を終えた。その日のうちに松平容保・
喜徳父子は、新政府軍軍監・中村半次郎(桐野利
秋)、軍曹・山県小太郎と対面し、降伏書を提出
した。
 24日には若松城が明け渡され、会津戦争は終結
した。会津藩が完全に降伏した日から二日後に会
津藩と同盟を組んでいた庄内藩も降伏した。




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