悲壮!白虎隊、自刃す!



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若き血潮みなぎる少年たちの自決


 奥羽戦に突入した新政府軍は、5月に白河城を
奪取し、6月には棚倉城を陥落させた。7月末には
二本松城を攻め落とし、会津若松へと進軍した。
越後では、長岡城が陥落し、越後方面の新政府軍
も会津へ進撃していた。

 二本松から会津に進軍するルートは石筵口(い
しむしろくち)、御霊櫃口(ごれいひつぐち)、中山
口(なかやまくち)の三つの経路が考えられた。
 新政府軍白河口参謀・板垣退助(土佐藩士)は
御霊櫃口を進撃することを主張し、一方、同じく参
謀の伊地知正治(薩摩藩士)は石筵口を進撃する
ことを主張した。
 二人は互いに主張を譲らず、激論となったが、
結局、会津側の防備が手薄な石筵口ルートに決
まった。

 8月20日に薩摩・長州・土佐・佐賀・大垣・大村・
佐土原の諸藩軍、総勢約2000が二本松を出立し
、石筵から母成峠(ぼなりとうげ)を越えて一路、
会津若松城へと進撃した。
 御霊櫃方面など各方面に兵力をさかれていた
会津藩軍は、母成峠を手薄としていた。母成峠は
天然の要害を持つため、それを頼みにわずか500
余の農兵部隊を置いていた。
 その後、新政府軍が母成峠を進撃してくるとの
報せを受けた旧幕府軍は、大鳥圭介率いる旧幕
府伝習隊が援軍に加わり、ついで二本松藩軍の
残党なども守備に参加した。

 一方、新政府軍は大砲20門を峠に運び入れて、
会津側守備隊に向けて激しく砲撃し、その勢いに
乗って、一気に進撃して会津側守備隊を21日に
打ち破った。
 ついで新政府軍は進撃を重ね、22日には猪苗代
城を陥落させ、猪苗代湖北岸の十六橋へと進軍
した。十六橋は猪苗代湖の水が日橋川に流れ出
る地点にかかっており、石造りの十六の橋脚を持
った橋である。
 新政府軍がこの十六橋を渡る動きを見せたので
、会津側はこれを阻止しようとこの橋を壊しにかか
った。だが、一部の橋板を外した時点ですでに新
政府軍が目の前に迫り、一気に川村与十郎率い
る薩摩藩軍が突入してきた。
 この橋をめぐる攻防戦は新政府軍の勝利に終り
、新政府軍はそのまま戸ノ口原へと進軍した。
この十六橋をめぐる攻防戦が始まる少し前に松平
容保は会津若松城を進発した。佐川官兵衛を先
鋒とし、松平定敬、白虎二番隊、長岡藩残党など
総勢200余で小雨の中を進み、滝沢村の本陣に
向かった。
 会津藩軍本隊が滝沢本陣に入ってまもなく、戸
ノ口方面に配備されている正奇隊、敢死隊、遊撃
隊が新政府軍と交戦中との報告が入り、続いて
苦戦との報告も入った。ここで容保は白虎二番隊
に援軍へ向かうよう命令を下した。

 白虎隊士中二番隊は日向内記を隊長とし、小隊
頭・山内弘人、水野勇之進、半隊頭・原田克吉、
佐藤駒之進の計五名だけが成人で、他の37名は
16〜17歳の少年であった。
 白虎隊は滝沢峠を越え、強清水(こわしみず)を
経て、夕刻になって戸ノ口原に到着した。彼らは
急きょ出陣したため、食糧を持っていなかったため
、戸ノ口原を守備していた敢死隊から握り飯を一
人二個ずつ配給された。これが少年たちの最後の
食事となった。食事を終えた彼らは、夜、降りしき
る雨の中を進軍した。
 夜明けとともに新政府軍は、砲撃を開始した。白
虎隊も旧式の先込めヤゲール銃を使い、激しく応
戦した。戸ノ口原を守備していた敢死隊・奇勝隊
なども新政府軍の攻撃に応戦したが、新式兵器を
駆使する新政府軍の攻撃にはかなわず、会津側
は多数の死傷者を出して、後退した。

 この激戦の混乱の中で、白虎隊は小隊頭や半
隊頭とはぐれてしまった。仕方なく若い篠田儀三郎
(しのだぎさぶろう)が隊の指揮を執り、強清水まで
引き揚げることにした。彼らは、主君と生死をとも
にしようと山道を急ぎ、滝沢不動の付近に出た。
 この地点で味方と間違えて新政府軍の部隊に声
をかけてしまい、銃撃を受け、疎水の洞門に身を
潜めた。
 この疎水は猪苗代湖の水を会津城下へ導き入
れるために飯盛山の下をくり抜いて作られたもの
であった。そこで、隊士たちは長さ100mほどの洞
門を通り抜け、飯盛山のふもとに出ることにした。
腰まで水につかりながら進み、飯盛山のふもとに
出た隊士たちは南方を見た。
 すると城下からは黒煙が出て、あちこちからは
炎も見える。城が燃えていると思った少年たちは
主君も城と運命をともにしたに違いないと早合点
をした。実際にはこの黒煙は、新政府軍が城下に
突入して、藩士の邸宅や民家を焼き払ったために
できた煙で、会津若松城自体はまだ無事であっ
た。

 しかし、少年たちは落城後も生きて恥じをさらす
よりは、潔く城と運命をともにしようと考え、「君国
に殉じ、武士の本分を全うしよう」と野村駒四郎
(17歳)がみなに提言し、一同がこれに賛成し、
まず石田和助(16歳)がまず腹に短刀を突き刺し
て、自刃した。そして少年たちは次々と切腹や刺
し違えをして、20隊士が自刃した。
 このうち飯沼貞吉(16歳)だけは、手首を切って
死のうとしたが、傷口が浅かったことから、まだ息
があるうちに足軽・印出新蔵の妻に助けられ、奇
跡的に一命を取り留めた。
 そして、唯一隊士で生き残った飯沼の証言によ
って、白虎隊の悲壮劇が後世に伝えられたので
あった。この白虎隊の悲劇は、当時の武士たちが
激しい悲壮感の中で、武士の意地を最後まで貫き
通した世界観を後世にひしひしと伝えてくれている
貴重な出来事であった。





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