旧幕府艦隊の北上



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榎本武揚率いる旧幕府艦隊、出航す!


 徳川慶喜の恭順姿勢は、多くの旧幕臣たちの不
満を残した。特に大鳥圭介や榎本武揚たちは、旧
幕府軍の中でも西洋式軍制を布いた部隊を率い
ており、新政府軍と互角に渡り合える軍力を持っ
ていたため、なおさら徹底抗戦を主張して聞かな
かった。
 1868年(慶応4年)4月11日、江戸無血開城が行
われ、旧幕府軍の本拠地は滅してしまい、旧幕府
軍は、徹底抗戦を叫んで、関東・北陸・奥羽の地
へと向かった。
 この時、旧幕府の所持していた兵器や軍艦は、
交渉により新政府側に引き渡されることが決まっ
ていたが、海軍副総裁・榎本武揚はこれを承知で
きず、旧幕府艦隊を率いて、房州館山に移動し、
新政府側の動きをうかがった。
 これを知った実質的な幕府全権である陸軍総裁
・勝海舟は、急いで館山に赴き、榎本を必死に説
得した。旧幕府側の立場や江戸の仕置きなど意義
を唱えた結果、榎本はついに折れ、艦隊を品川沖
に回航させて、新政府側への引渡しに応じる構え
を見せた。
 結果として、数隻の軍艦が新政府側に引き渡さ
れることになり、富士山・朝陽・観光・翔鶴・飛竜な
どの軍艦が無事、引き渡された。
 だが、開陽・回天・蟠竜・千代田形の四軍艦と神
速・咸臨などの運送船は榎本の手元に残った。
軍艦・開陽は、幕府がオランダに造船させた最新
鋭艦で、新政府軍が保持する軍艦をはるかに凌ぐ
性能を持っていた。
 榎本にとっては、自身が海軍留学生となって、オ
ランダに渡り、6年間の修業後、できたばかりの開
陽に乗り込み、帰国した思い出深い軍艦であっ
た。
 運送船・咸臨は、日本で最初に太平洋横断を成
した船で、勝海舟が艦長を務めていた。太平洋横
断後、咸臨は蒸気機関と大砲を外し、軍艦として
の役目を終え、新たに運送用帆船として使われて
いた。

 江戸無血開城後、5月になって、新政府側は、徳
川家への処置を決めた。まず、徳川宗家当主には
、田安亀之助(たやすかめのすけ※徳川家達)が
後継者として決まり、駿河・遠江二カ国を領有する
ことが認められ、合計70万石の一大名となった。
 幕府政権の時代には徳川宗家だけで500万石
近い石高を領していたのが、維新後は70万石とい
う減封となってしまった。そのため、徳川宗家に仕
える旧幕臣8万人を養うことができなくなり、多くの
旧幕臣たちが困惑した。
 この問題を解消させるため、榎本は蝦夷地に旧
幕臣たちを移住させ、開拓にあたらせる案を新政
府に提出し、救済を図った。

 7月に入ると、奥羽越列藩同盟の密使が榎本に
派遣されてきた。榎本が率いる旧幕府艦隊の協力
要請であった。榎本はこれを了承して、北上する
ことを決した。
 北上準備を整えた榎本は、8月20日に開陽・回天
・蟠竜・千代田形・咸臨・長鯨・神速・美嘉保の八隻
を率いて、品川沖を出港。
 列藩同盟の盟主・仙台藩が持つ仙台湾へと一行
は向かった。この榎本艦隊の指揮官は、司令官に
荒井郁之助、開陽艦長・沢太郎左衛門、回天艦長
・甲賀源吾、蟠竜艦長・松岡磐吉、千代田形艦長・
森本弘策という面々で、こぞって海軍の秀才ばか
りであった。

 その他に旧幕府の重役たちが搭乗していた。元
若年寄・永井尚志、元陸軍奉行並・松平太郎が顔
を連ねていた。また、渋沢成一郎が率いる彰義隊
の生き残り部隊、伊庭八郎が率いる遊撃隊、そし
て、旧幕府のフランス軍事顧問団を脱退して、榎本
らに協力している砲兵大尉・ブリュネらフランス軍人
など、総勢2000余人も乗船していた。

 旧幕府軍一行を乗せた榎本艦隊は出港翌日から
悪天候に見舞われた。鹿島灘にさしかかったころに
は、艦隊は離れ離れになり、大量の軍需物資を積
んでいた美嘉保は岩礁に乗り上げて、沈没してし
まった。
 ついで、咸臨も荒波のため、大破して南西に流さ
れ、漂流の末に9月2日、駿河の清水港に漂着した。
その港で、咸臨の修理を行っていたが新政府軍が
かぎつけ、急襲されたため、旧幕府側に多くの死者
や捕虜が出た。咸臨も新政府側に没収され、榎本
艦隊は戦う前に早くも2隻を失うはめになった。

 一時ははぐれた艦隊だったが、9月中ごろまでに
次々と仙台湾に集結し、もとの艦隊に戻った。しかし
、仙台湾にようやく榎本艦隊集結したころは、すで
に列藩同盟はほとんど崩壊していた。
 列藩同盟の一翼を担う米沢藩が降伏し、会津藩も
本拠地・若松城が新政府軍の包囲を受けていた。
この劣勢を受けて、仙台藩までもが降伏しようとして
いた。榎本は徹底抗戦を主張し、必死で仙台藩を
説得したが、情勢の悪化を受けて、仙台藩は降伏
してしまった。9月下旬までに会津・庄内・南部など
列藩同盟を形成する諸藩も次々と降伏し、完全に
榎本の活躍の場は失われてしまった。

 奥羽の地での活躍の場がなくなったことを悟った
榎本は、10月12日に仙台湾をあとにし、一行は空白
地に近い蝦夷箱館へと向かった。
 出港にあたって、奥羽の地を追われた旧幕府軍を
新たに艦隊に召喚した。桑名藩主・松平定敬、元幕
府老中・板倉勝清、小笠原長行らもと幕府要職に
就いていた重役たちを搭乗させた。
 また、旧幕府歩兵奉行・大鳥圭介、新選組副長・
土方歳三、遊撃隊長・人見勝太郎、衝鋒隊長・古屋
久左衛門、仙台藩額兵隊・星恂太郎ら兵団諸隊も
乗船させた。
 こうして、徹底抗戦の姿勢を捨てきれない旧幕府
軍の一団をかき集めた榎本は、10月20日に艦隊を
箱館に近い鷲ノ木に接岸させた。接岸地点は、新
政府側に立つ松前藩の拠点・箱館より10里ほど北
に位置していた。
 榎本たちは、蝦夷地を占領下に置き、旧幕府側の
最後の地にしようと計画していた。この後、松前藩
を打ち破り、蝦夷地を占領した榎本たちは、西洋式
政権を樹立し、共和制の下で新政府側と対抗する
姿勢を取っていくのであった。





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