箱館戦争



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箱館の激戦と五稜郭の陥落


 蝦夷地にて、共和国家を樹立した榎本政権は、
意気揚々と蝦夷地開発に着手していた。そんな中
、1868年(明治元年)12月27日に欧米列強の代表
者が会議を開き、戊辰戦争勃発時から局外中立
の立場を取ってきた方針を改めることが決まった。
 翌日にはイギリス・フランス・アメリカ・イタリア・
オランダ・プロシアの六ヶ国公使が明治政府に通
達を出した。欧米列強の局外中立の撤廃と内戦
終了と見なすことを日本に報せたのであった。

 新政府は、蝦夷にできた榎本政権を潰すべく、
軍事行動を開始した。年が明けて、1869年(明治
2年)1月に入ると、以前に幕府がアメリカに発注し
ていた最新鋭装甲軍艦・ストーン・ウォール・ジャク
ソン号が新政府側に引き渡された。
 それまで、国内干渉をしない方針を取っていた
ため、新政府側への引き渡しが保留されていたが
、前年に内政干渉が撤廃されたので、引き渡しが
成されたのであった。

 この装甲軍艦を「甲鉄」と改名し、新政府艦隊の
主力艦と定めた。当時では日本唯一の装甲艦で
あった。
 この最新鋭艦を入手した新政府軍は、ついに蝦夷
討伐を決行し、甲鉄を旗艦とし、春日、陽春、丁卯
の四軍艦と飛竜、豊安、戊辰、晨風の運送船四隻
からなる新政府艦隊を組織し、3月9日に品川沖を
出港した。 一行は箱館を目指して、北上し途中、
宮古湾に入り、装備補充を成した。

 蝦夷討伐艦隊が出港したことを受け、榎本軍は、
正々堂々と戦っては勝ち目がないとして、回天艦長
・甲賀源吾の提案による奇襲作戦が敢行されること
となった。
 新政府艦隊が宮古湾に停泊しているとの情報を
受け、これを奇襲して敵艦の甲鉄を乗っ取ろうとい
うのである。
 3月20日に榎本軍海軍奉行・荒井郁之助が総指揮
を執る回天・蟠竜・高尾の三艦が箱館を出港した。
新政府艦隊に近づくにあたって、外国旗をかかげて
敵を油断させ、攻撃直前に自国旗に変えるという
欧州で使われている戦法を採用した。
 だが、作戦は初手からつまづいた。先に航行して
いた回天と高尾は蟠竜の航行が遅れているのを見
て、山田港で蟠竜を待ったが、蟠竜は到着せず。
 高尾も機関が故障して出港できなくなり、仕方なく
作戦は回天一隻で遂行することとなった。25日未明
、甲鉄に接近した回天は、野村理三郎らの斬り込み
部隊が甲鉄に突入した。だが、甲鉄の甲板にあった
連射砲であるガトリング砲があったため、この連射
攻撃にあって、斬り込み部隊はほとんどが死傷し、
突撃はわずか30分で終り、回天は敗北した。この
戦いで回天艦長・甲賀源吾が戦死した。

 榎本軍との緒戦に勝利を収めた新政府軍は、討
伐軍を青森に集結させ、春を待って蝦夷地へと渡海
した。
 4月9日に新政府軍は、江差より10kmほど北に位
置する乙部に上陸し、箱館戦争が開始された。
新政府陸軍参謀兼海軍参謀・山田顕義(やまだあ
きよし)は、部隊を三分割し、松前口、二股口、木古
内口へと部隊を進攻させた。
 松前口を進攻した部隊は、海上より軍艦の援護砲
撃を得て、江差を無難に攻略した。ついで、松前を
攻撃し、松前城を奪取した。その後、木古内、矢不
来も相次いで攻略した。
 二股口を進攻した部隊も快進撃を続け、各地に
配備された榎本軍は、全て敗退し、全軍は五稜郭と
箱館に集結した。

 五稜郭と箱館を包囲した新政府軍は、5月11日に
陸海両面から総攻撃をかけ、一気に勝敗を決しよう
とした。
 新政府軍の陸上部隊は、有川、七重方面から箱
館へと進撃した。また、別働隊は箱館山奇襲上陸
作戦を敢行するため、豊安、飛竜に隊員を分乗させ
、寒川から上陸を果たした。
 この別働隊は陸軍参謀・黒田清隆の指揮のもと、
断崖をよじ登って、箱館山山頂を占領した。
この陸上での戦闘を海上にいた新政府艦隊が援護
砲撃を成し、箱館一帯は砲撃戦が展開された。
 これを迎撃する榎本軍は、回天、蟠竜の二艦で
応戦させ、弁天台砲台、千代が岡砲台からも応戦
の砲撃を行った。
 この激しい砲撃の応酬戦で、蟠竜が砲撃した一発
が朝陽の弾薬庫に直撃し、朝陽は大爆発を起こし
て、海の藻屑と消えた。
 この快心の一撃によって、敵艦を撃沈したことは、
榎本軍をはにわかに活気付かせたが、それもつか
の間で、回天が集中砲火を浴びて、使用不可能と
なり、蟠竜も浅瀬に乗り上げて、操縦不能となり、
乗組員は船を捨てて、上陸した。

 海上戦が敗退一色となるとすかさず、箱館山を占
拠していた新政府軍部隊が箱館の市街地へとなだ
れ込んで、市内を制圧した。
 箱館を奪還しようと榎本軍は、五稜郭より土方歳
三が率いる決死隊が突撃していったが、指揮官の
土方が腹部に敵弾を受けて、倒れついに絶命する
と陸上戦でも榎本軍は敗退一色と化した。

 完全に榎本軍の反撃がなくなると新政府軍は5月
12日から甲鉄の主砲70斤砲を用いて五稜郭へと
艦砲射撃を開始した。この激しい海上からの砲撃で
五稜郭内の兵士たちは次々と死傷し、被害は拡大
する一方となった。
 五稜郭が陥落寸前となって、榎本は自ら自決して
最後を飾ろうとしたが、側近たちに推し止められ、つ
いに榎本軍は新政府に降伏することとなった。
 12月に入って、難攻不落を誇った弁天砲台が陥落
し、翌日には千代が岡砲台も陥落した。そして、つ
いに18日に榎本たちは五稜郭を出て、新政府軍の
軍門に降ったのであった。五稜郭を出て、降伏した
者たちは1000名余に達した。

 こうして、1年半の永きにわたって国内を激震させ
た戊辰戦争はこうして、終止符が打たれた。





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