1862年(文久2年)8月21日に勃発した生麦事件は、起こるべくして起こった事件であった。 生麦事件が起こる前から、夷人斬りが国内で盛んになっていたからだ。 生麦事件が起きる前年には、水戸浪士たちによる東禅寺のイギリス公使館襲撃事件が起こっていた。また、生麦事件が起こった年には、松本藩士によるイギリス公使館水兵殺害事件が起き、ついで、フランス士官傷害事件などが連続して起こっていた。 さしずめ生麦事件が起きた当時の日本国内の状況は、夷人斬りが横行した時期の真っ只中であり、攘夷運動を幕府に強請するだけあって、薩摩藩が堂々と夷人斬りを成しても不思議はなか った。 生麦事件でイギリス人を斬った薩摩藩士の一人は、みな夷人が斬りたくてしびれを切らしていたと回想しており、他の藩士が夷人を切ったと知り、自らもごちそうを得た心持ちがしたと述べている。 当時の尊攘派志士たちの心持ちをよく表しており、尊攘の勢いが最盛期に達していた時期を物語っている。 |
1862年(文久2年)8月21日午後2時ごろ、生麦事件は勃発した。 事件現場は、江戸から帰京の途についた薩摩藩島津久光の一行400名が神奈川に近い生麦村にさしかかった地点で起こった。 久光は孝明天皇の勅諚をたずさえた勅使の大原重徳を江戸まで護衛し、幕府に幕府改革を成すよう強請する役目を務めた。 幕府は久光が率いる薩摩藩軍の武力に脅された形で、しぶしぶ攘夷実行や久光が希望する人材の登用を承諾した。久光は幕府を屈服させた心持 ちを持って、意気揚々と”凱旋将軍”ごとく帰京の途についていた。 攘夷実行を強硬に主張する久光の行列一行である。幕府は外国人居留地がある横浜を通る久光一行が心配で、わざわざ帰路につく久光に対して、くれぐれも外国人などを斬らないようにと忠告していた。しかし、幕府の心情も知らぬ顔で、生麦事件を起こしてしまった。 生麦事件で斬られた外国人は、上海在住のイギリス人商人・リチャードソン、香港在住商人の妻・ボロデール婦人、横浜在住の商人・クラークとマーシャルの四人であった。 四人は横浜方面から川崎方面へ向けて、馬にて進み行き、川崎大師を見物する目的だった。 実は彼らは、その日のうちに上海に発つはずだったが中止となったため、その日が太陽暦で日曜日であったことも手伝って、日本国内の観光を楽しむことにしたのだった。 夷人斬りが横行しており、幕府は外国公使に対して、薩摩藩の行列が通るからあまり出歩かないようにと通達していた。 彼ら四人が外出すると聞いて、リチャードソンの友人は、危険だから外出を控えるように忠告したが、リチャードソンは上海で東洋人の扱いには、自信を持っていたため、これを聞き入れなかったという。 |
事件の詳細については諸説があるが、当時イギリス公使館の通訳官として働いていたアーネスト・サトウの記録によると、次のような事件経過をたどったようだ。 リチャードソンら外国人4人は、薩摩藩の大名行列の先頭に遭遇し、薩摩藩士に「脇へ寄れ」と注意されたという。 そこで彼らは道路の脇へ寄って、目的地へ向かって、進んでいったという。すると彼らとは逆の方角へ進んでいく大名行列とずっとすれ違いながら通ることとなり、ついには久光の駕籠が見えてきた。それを見ながら駕籠の脇を通っていこうとした四人一行に対して、今度は藩士の一人が「引き返せ」と注意してきた。 言われたとおり四人は、馬首を返そうとした時、行列中にいた数名の藩士たちが突然、抜刀して斬りつけてきたという。 また別の資料によれば、外国人四人は、行列とすれ違いながら進んでいくと、行列の本隊が道路の幅、全部を使って進んできたので、左側に寄って、立ち止まり、行列の本隊が通り過ぎるのを待っていた。 その時、前にいたリチャードソンとボロデール婦人が馬首を並べて、行列が通り過ぎるのを待っていると道の外側に位置していた婦人の馬が道を踏み外して、道路の脇にあるくぼみに落ちかけた。 そのため、婦人は馬を道路に戻すために前へ出た。 その様子を見ていた藩士の一人が彼らへ向かって、何か手まねをしている。後方にいたクラークとマーシャルはこれを見て、「引き返せ」「並行するな」と前にいた二人に注意した。 すると前にいたリチャードソンが馬首を返したところ、藩士たち数名が抜刀してリチャードソンに斬りつけてきたという。 他の資料では、外国人四人が薩摩藩の行列とすれ違いながら進んでいくと、ちょうど道幅が狭い所に出くわし、外国人たちはギリギリまで道路の脇に寄って、行列が通り過ぎるまで避けようとしていた。しかし、なかなか行き過ぎず、藩士たちの殺気を感じ取り、危険と判断して一行は馬首を返して、もと来た道を引き返そうとした。 狭い道で馬首を返したため、一行は行列の中に割り込む結果となり、ついには藩士たちに斬られる始末となったというのである。 いずれの説も外国人たちは、馬上で大名行列が通過するのを待っていたことになるが、その行為事体が薩摩藩士たちを過剰に反応させてしまう結果を生んでいる。 外国人四人が斬られる前に薩摩藩の一行は、ユージン・バン・リードというアメリカ人とすれ違っている。リードはこの時、自分を見る藩士たちの気配が物々しく、殺気立っているように感じ、危険を回避すべく、自分の周囲にいた日本人民衆が土下座して行列が通り過ぎるのを見て、これに習い下馬して、日本人民衆の間に入って、脱帽した状態で行列が通り過ぎるのを待ったという。 こうして、異様な殺気が漂う大名行列を避けたというのだ。 さすがに土下座をして大名行列をやり過ごすということは外国人にはできないが、下馬していれば、非礼として扱われなかった可能性が高い。 これをしなかったリチャードソンら四人は、藩士たちの殺気をモロに受けてしまうのであった。 最初に一太刀、夷人に浴びせたのは、奈良原喜左衛門(ならはらきざえもん)であった。四人の先頭に位置していた馬上のリチャードソンに斬りつけ、左肩鎖骨(さこつ)から肋骨数本を切断した。 斬られたリチャードソンは驚き、慌ててもと来た道を戻って、馬を走らせてその場から逃げたが、それを待ち受けていた久来村利休(くきむらりきゅう)に左わき腹を斬られた。 一方、クラークとマーシャルも背中や肩を斬られ、重傷を負いながら死地を脱しようと逃げ惑った。 唯一ボロデール婦人だけが帽子と頭髪の一部を斬られるだけで済み、そのまま横浜にある外国人居留地へと逃げ帰った。 リチャードソンは、1キロほど馬を走らせ、行列から逃げたが、腹部を斬られていたため、内臓がはみ出し、激痛のあまり落馬した。まだ息はあったが、追ってきた数名の薩摩藩士たちによって、止めを刺され絶命した。 |
生麦事件が勃発して数時間もたたない内に事のてん末は、すぐに横浜にある外国人居留地に知れ渡った。生麦事件で薩摩藩士たちに襲撃された四人の外国人の一人、ボロデール婦人が軽傷で済んだことから、現場から逃走してそのまま、居留地へ逃れてきたからだった。 居留地にいた外国人たちは皆、騒然となった。今まで外国人殺傷事件は頻発していたが、被害者はみな軍人や外交官であり、一般の商人が斬られたのはこれが初めてだったため、大きな衝撃を受けたのだった。 すぐさま武装して報復措置を取るべきだと主張する者も現れ、各国公使館からは騎馬兵や歩兵を繰り出して、舞台を編成し事件現場へと向かわせた。 外国人の中には、横浜に入港している外国船の兵力を結集して、保土ヶ谷に宿泊している薩摩藩を包囲し、その頭目である島津久光を罪人として捕縛しようと提示する者まで現れた。 条約上、当時の諸外国には治外法権と領事裁判権を認められていた。いわば、諸外国は一つ一つが藩のような立場と同等の存在であった。 イギリス人商人が殺傷されたということで、イギリス公使館はにわかに慌しくなった。イギリス公使・オールコックは休暇で帰国中であったため、代理公使であるニールがこの殺傷問題に対処することとなった。 ニールは過激に軍事行動を日本国内で起こして、幕府や諸藩を刺激することは得策ではないと考え、慎重な態度を示し、とりあえず戦争回避を選択して、外交手段によって、問題の解決を図った。 一方で、薩摩藩でもこの事件を軽視しては、いなかった。襲撃した藩士たちが報復されることを予想して、先手必勝とばかりに外国人居留地を先に焼き討ちにして、緒戦を勝利で飾るべしと豪語する藩士が出たが、大久保一蔵(利通)はこの案を斥け、神奈川宿泊を予定していたのを、急きょ変更して、その先の保土ヶ谷まで進み、外国人居留地との距離をなるべく離すことにした。 幕府からは事件解決が成るまで、駐留するようにとの要請を受けたが、これを無視して、翌朝早くに京都を目指して、旅路についた。 幕府への事件に関する届出は早々に行われ、外国人を襲撃した下手人は「足軽・岡野新助」という架空の人物をねつ造し、事件後に行方知れずであるとした。 事件後の外交交渉は、イギリス公使代理のニールが担当し、幕府に強硬な抗議が幾度となく行われた。 事件勃発から翌年の1863年(文久3年)2月にイギリス本国から訓令を受け取ったニールは、幕府に対して、白昼堂々と通行を許可された地域内にて無抵抗なイギリス市民が斬殺された事件を統治責任のある幕府の責任と吹っかけ、その上、犯人逮捕をいまだ成さざる怠慢無礼は許すまじき行為と受け止められるので、10万ポンド(40万ドル)の賠償金を要求するとした。 この40万ドルという金額は幕府が今まで支払った賠償金額をはるかに超える途方もない金額であった。 1860年(万延元年)にアメリカ公使館の通訳官・ヒュースケンが斬殺された事件では、賠償金は1万ドルであった。 薩摩藩がヨーロッパから購入した最新鋭の蒸気船が一隻、約10万ドルであったから4隻も買える莫大な金額であった。 アメリカ公使・プリューインは、イギリスの強引な莫大な賠償金要求を見て、日本に同情するほどであった。 幕府もあまりにも高額すぎるため、返事を渋ったが、イギリス側は砲門35を装備した軍艦・ユーリアラス号以下数隻を横浜に集結させ、回答が不満足なものであれば、それに見合う報復処置を取ると豪語し、幕府を脅迫した。 イギリスの物々しい態度に驚いた横浜の日本人住民は幕府とイギリスが戦争すると思い、早々に非難する者が続出した。横浜の外国人居留地に住む外国人商人たちも身の安全や財産の確保のために幾度となく会議が開かれ、非常事態に備えた準備を整えていた。 幕府側は戦争にはやるイギリス側にのせられては、インドや中国の二の舞になりかねないとして、賠償金を支払うことにした。 幕府は朝廷の勅命を受けて、攘夷を実行すると約束してしまった手前、この支払いを老中格である小笠原長行の独断で行ったことにした。 1863年(文久3年)5月9日、前年に起きた東禅寺事件の犠牲者2名の賠償金1万ポンドも合わせた11万ポンドがイギリス側に支払われた。 2千ドル入りの箱でイギリス公使館へ運ばれたため、箱数は220箱という数に上った。 イギリス公使館では、中国人の貨幣検定人を方々から借り集め、貨幣の検定と勘定を進め、全部やり終えるのに3日間かかったという。 皮肉なことにイギリス側に賠償金を支払った日の翌日、5月10日は幕府が攘夷実行期限として、朝廷に約束した日付であった。 幕府への報復を成したイギリス人は、懐を暖めて、意気揚々と今度は、襲撃者の薩摩藩とのカタをつけることにした。 薩摩藩はイギリス側が要求する謝罪書と2万5000ポンドを提出することを拒み、イギリスと一触即発の危機的状況となる。 薩英戦争へと向かった両者は、多大な被害をともに出しながら、痛み分けに終る。薩摩藩にとっては、攘夷実行がまさに不可能であることを悟らせるきっかけを作り、イギリス側でも日本国内の領土を割譲させることが困難であることを悟らせるきっかけを作った。 こうして両者は、互いの思惑を違わせながらも、日本国内統一のためにやがて、協力体制を築いていくのであった。 |