版籍奉還



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中央集権国家形成への第一策目


 戊辰戦争を経て、新政府が目指したのは、天皇
を頂点とする統一国家を実現させるためだった。
これには、旧来の幕藩体制は、討滅の対象でしか
なく、以後は存続の有り得ない国家形成であった。

 版籍奉還はまさにその統一国家形成へ向けて
の第一歩となる政策であった。版とは版図の意味
で日本国土を指す。籍は戸籍の意味で日本国民
を指す。
 幕藩体制は、幕府が国政を天皇・朝廷より預か
っていたが、日本全土は各藩が各地を治め、自治
を認めていた。そのため、各藩への統治方針は、
幕府はあまり干渉せず、各藩独自に任せていた。
 そのため、幕藩体制の廃止を目指す新政府は、
幕府を倒した後に残った各藩に対する処置を考え
なくてはならなくなった。
 全ての藩をなくすことを最終目標として、各大名
の反発を抑えながら、徐々に政策を推し進めてい
くことが求められた。
 各藩が持っている土地や人民を天皇に返還させ
るには、新政府の核となっている西南雄藩が率先
して、返還することで全国の諸藩に模範を見せる
ことが肝要として、1869年(明治2年)1月20日に薩
摩・長州・土佐・佐賀の四藩主が連著して版籍奉
還する願いを新政府に提出した。

 版籍奉還を率先して行った四藩主は、木戸や大
久保など新政府の中心人物たちの説得工作によ
って、承諾したものだったが、実際には戊辰戦争
などでの功績を賞されて、後日に石高倍増などが
されると思い込んでいた。
 しかし、藩政奉還後は、改めて新政府より再統治
するといった処置は成されず、完全に四藩主たち
は、新政府にだまされた形となった。論功行賞に
おいても石高倍増といったことは成されず、不満の
残る結果となったが、新政府の勢いに押されて、
不満を爆発させるわけにもいかず、さまざまな懐
柔策も打たれてしまい、完全に諸藩の反抗は封じ
込められてしまった。

 この四藩による版籍奉還が成されると、天皇は
大いに感激したと賞賛し、これが諸藩に伝わると
全国の藩は次々と奉還を申し出た。自主的に奉還
を願い出て、強制的に新政府側から奉還勧告を
されないようにした方が無難だとの判断があった。
 5月3日までに全国262藩の版籍奉還が提出され
、完全に新政府の思惑は成功した。版籍奉還が
完了した後、政府は6月に入って、各藩主たちに
それまで通りの領土を統治させる権限を与え、
改めて知事として政府が任命した。
 この旧藩主たちに従来どおり、領土の政務を執ら
せたことは、各大名の反発を抑えるためであったが
、木戸孝允などは猛反対をした。せっかく版籍奉還
が速やかに実行されて、平穏のうちに完了したため
、この新政府の勢いをもって、一気に藩領を没収す
る方がよいとする木戸たちであったが、急激な変革
は避けるべきとの意見が採用された。
 大名や公卿の名称は廃止され、一様に華族という
名称に改められた。

 これら諸藩の不満を最小限に抑えつつ、新政府は
戊辰戦争の論功行賞を発表した。薩摩・長州には、
それぞれ10万石、土佐には4万石、佐土原・大村・
松代・大垣・鳥取にはそれぞれ3万石が恩賞として
配布された。





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