廃仏毀釈



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天皇統治に不可欠な神道を顕在化する
ため、仏教との分離化を推進す!


 もともと日本にあった神を祭る習慣が形式化した
のが神道ならば、その途中から日本に入ってきた
のが、仏教であった。神道は、天皇を奉る上で欠
かせない信仰精神の拠り所となる分野であるが、
中国から輸入されてきた仏教は、聖徳太子の頃か
ら、熱心に信仰されるようになり、その後の日本史
を左右するほどの影響力を持った。
 幕末までは神仏習合の形が取られ、ともに祭祀
が行われていたが、維新を迎えたころから事情が
変わってきた。
 天皇を頂点とする統一国家が誕生すると、その
理念を体系化した神道は、国教と見なされ、その
顕在化をしなくてはならなくなった。仏教と融合さえ
されていた神道を引き剥がし、二つを分離する作
業が必要となったのである。

 それまでの神道と仏教は、神道習合がなされて
いて、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ※仏が
人々を救うために神に姿を変えてこの世に現れ出
ているとする説)に従って、神社は神宮寺(じんぐう
じ)や別当寺(べっとうじ)などを設けて、神社の中
に仏教思想を取り入れていた。
 そうして、別当僧が神官を兼ねたり、神社のご神
体を仏像にしている所が多かった。

 この神仏習合の状態を無くすべく、明治政府は
「神祇(じんぎ)ヲ崇(たっと)ビ祭祀ヲ重ンズルハ皇
国ノ大典、政教ノ基本ナリ」として古代の政治理念
である祭政一致を唱え、神道を国教と定めた。
 そして、全官庁の最高位に神祇官を置き、皇室
の祖先神を奉る伊勢神宮を国家の宗廟(そうびょ
う)とした。
 この新政府の方針のため、檀家制度に支えられ
、国教的特権を有してきた寺院を神社から切り離
す運動が全国的に巻き起こった。
 1868年(明治元年)3月、諸神社に対して仏僧が
社務に従うのを禁止し、彼らを還俗させ、僧位・僧
官を返上させた。また、菩薩や権現など神仏習合
の神号を廃止し、梵鐘(ぼんしょう)や経文(きょう
もん)・仏具類を神社に置くことを禁じた。

 こうした運動は平田篤胤が提唱した排仏説に共
鳴する志士たちによって、推し進められた。平田は
「仏は日本の国の居候(いそうろう)である」と位置
付け、勤王の志士たちに支持された。
 また、長年に渡って、僧侶に圧迫されてきた神職
たちも不満をこの時に爆発させて、廃仏毀釈運動
は促進されていった。

 全国各地で行われた廃仏毀釈運動は、特に佐
渡・富山・松本・美濃苗木・津和野・薩摩などで激
しい運動が展開され、僧侶に対して、還俗・帰農が
強制された。
 これら一連の過激な運動も、1871年(明治4年)
に神仏分離や廃仏毀釈の行き過ぎから仏教の将
来を案じた三河の僧侶たちが一揆を起こすと、こ
れを境として、仏教迫害への運動も次第に鎮静化
していった。





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