明治のキリシタン迫害



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邪宗門教としての迫害


 1859年(安政6年)に開港した長崎の地にフラン
ス人宣教師たちが西洋風建築のフランス寺を立
てた。1864年(元治元年)に完成したこの教会は、
日本人のキリスト教信仰を認めたわけではないが
、外国人が居留地内で礼拝できるように教会の設
置を許していた。

 1865年(慶応元年)1月に献堂式が行われたが、
長年に渡ってキリシタン禁令が成されていたため、
日本人キリシタンは誰一人としていなかった。
 しかし、翌年の2月になって、日頃、好奇心で見
物に来ている人たちとは別に十数人の老若男女
がこの教会に訪れていた。
 プチジャン神父の勧めで礼拝堂に入った彼らは
、「私たちの心は、あなたと同じです。サンタ・マリ
アの御像はどこですか?」と尋ねた。そうして、自
分たちが浦上のキリシタンであることを告白した。
 こうして、長年キリシタン弾圧が行われてきた日
本国内にも隠れキリシタンが存在したことが発見
された。この名高い「信徒発見」が行われて以降、
日増しに隠れキリシタンと名乗る信者が教会を訪
れるようになり、仕舞いには半ば公然と信仰を表
明するようになった。

 これに対して、幕府もある程度の弾圧は行った
が、軍政面でフランスから指導を受けていた幕府
は、立場上、徹底的な弾圧をすることができなか
った。
 維新後の新政府は、幕府の方針と同じく、キリス
ト教を邪宗教として信仰を禁令とした。廃仏毀釈
までして、神道を国教として顕在化に務めていた
だけに他宗教によって国民思想の統一が邪魔さ
れることを防ぐ必要があった。

 1868年(慶応4年)3月に出した禁令五ヵ条の一つ
として、キリシタン禁令を掲げた。この禁令に列国
公使が早速、抗議したが日本は頑として受け付け
なかった。イギリス公使・パークスは、キリスト教を
邪宗門とするとはなにごとかと怒鳴り込んだが、
政府は無視した。

 1868年(慶応4年)5月には、参与の木戸孝允は
キリスト教が九州に流布する恐れ有りとして、九州
鎮撫総督府と協議して、確認されている指導的
信者114名を検挙し、長州・津和野・福山の三藩に
分けて、投獄した。この迫害事件にパークスは憤
激し、この処置が改められない限り、日本と断交す
る可能性もあると提示したほどだった。

 それでも新政府は、キリスト教に対する姿勢を
改めることはなく、その後も長崎に乗り込んだ長崎
裁判所総督・沢宣嘉や井上馨・大隈重信たちに
よって、信徒への弾圧を敢行した。

 しかし、欧米列強の反発は年々強まり、新時代の
旋風がキリスト教への柔軟な妥協を成せると政府が
判断したことから、1873年(明治6年)にようやく政府
は、「一般熟知の事につき」として禁令を撤回した。
 この禁令撤回の裏事情には、条約改正との引き
換え実現を見たためであった。しかし、この禁令撤
回までに多くの流刑者が出て、その五分の一が亡
くなるなど悲劇が残った。





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