廃藩置県



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無血にて封建制度の廃止に成功す!


 新政府は、幕藩体制時代に築かれた国政体系
を解消する必要に迫られていた。1869年(明治2
年)には、版籍奉還を成し、藩主制度を廃止し、
政府側が藩主たちに藩知事の職務を命じること
にした。こうすることで、政府側が地方統治を藩知
事たちに命じたという形が取られ、政府側に強い
権限があることを示すことができた。

 しかし、依然として幕藩体制時代の組織形体は
変わってはおらず、旧藩主たちが地方を統治して
いた。そこで、兵制改革や財政面での処理利便を
図るため、政府は1871年(明治4年)7月14日に廃
藩置県を敢行した。
 藩組織による地方統治が撤廃されたのである。
政府は薩長土肥四藩の実力者と前もって協議を
重ねており、実施にあたって充分な根回しが成さ
れていた。また、岩倉・三条ら公卿出身の協力も
得て、天皇の裁断を仰ぐとともに、天皇から直接
、薩長土肥四藩主に対して、命じる異例の処置を
取り、他藩の反発を押さえ込む工夫をこらした。

 この政治工夫とともに諸藩がもし反発した場合を
想定して、薩長土の三藩から1万人の藩兵を徴集
して、天皇の「親兵」として東京に詰めさせる処置
を取った。こうして、武力鎮圧部隊を手元に置いた
政府は、わずか一日で廃藩置県実施を断行した
のである。

 廃藩置県実施の日、午前10時に天皇は小御所
代に出御し、あらかじめ呼ばれていた鹿児島藩知
事・島津忠義、山口藩知事・毛利元徳、佐賀藩知
事・鍋島直大、高知藩知事・山内豊範の代理・板
垣退助の四人を前にして、三条実美が勅語を読
み上げ、布告した。
 まず、四藩が率先して廃藩置県を成したことを
賞賛し、さらに廃藩置県を実施するにあたって、
天下の情勢を察してぜひ協力してほしいことが
告げられた。
 ついで、午後2時から天皇は、大広間に出御し、
そこに集まった在京中のすべての藩知事を前に
して、同じように三条が廃藩置県を成すことを布告
した。こうして、全国に260余の藩が存在していた
ものがこの時を持って、一斉に廃止されたのであ
った。

 予想された諸藩の反発はほとんどなく、むしろ歓
迎する藩が多かった。それは、窮乏する藩財政に
頭を悩めている藩が多かったため、廃藩置県によ
って、借金を政府が肩代わりしてくれるとあって、
喜びこそすれ、反発する者はいなかったのであっ
た。もちろん、家禄も従来どおり支給されるとあっ
ては、文句の付け所がない。

 唯一、薩摩藩の島津久光だけは、怒りを爆発さ
せ、花火を打ち上げて、鬱憤晴らしをする始末だ
った。
 政府は旧藩主たちを華族という身分にして、地方
統治の混乱を最小限にするため、全員を東京に住
まわせることとした。そして、藩知事の跡目は中央
から地方官が任命され、政府は完全に地方統治
を支配統括したのだ。

 この封建制度を完全に葬り去る政策を何ら兵乱を
起こすことなく終えたことは、大いに政府の自信へと
つながっていった。後に岩倉使節団の副使として
渡米した伊藤博文は、サンフランシスコでの演説で
欧州がかつて封建制度を廃止するために長い争乱
を経験したことを上げ、日本ではその兵乱なく、わず
か一日で制度廃止を成したことを自慢気に語って
いる。

 廃藩置県を成した後、藩がそのまま県とされたが
藩の数が余りにも多かったので、これを整理統合
を成し、11月には3府72県とした。





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