岩倉使節団は、欧米列強を外遊して、つぶさに その栄華の秘訣を探り、近代日本構築のための 方策を定めることを目的として、非常に意義深い ものであった。 1871年(明治4年)11月12日、右大臣・岩倉具視 を全権大使とする遺外使節団が横浜を出発した。 これに随行したのは、新政府の開明派を中心とす る欧米諸国に興味を持つ知識人たちであった。 副使には木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山 口尚芳(やまぐちなおよし※外務少輔)がついた。 他の随行者は、佐々木高行(※司法大輔)、山田 顕義(※兵部大丞)、田中光顕(※戸籍頭)、田中 不二麿(※文部大丞)、清水谷公孝(しみずだに きんなる※旧箱館府知事)、鍋島直大(なべしま なおひろ※旧佐賀藩主)、黒田長知(くろだながと も※旧福岡藩主)、中江兆民(※留学生)、団琢磨 (※留学生)、女学生5名がいた。 面々は華族、書記官、通訳、随員、留学生、女学 生など総勢48名にのぼった。 また、使節団には欧米諸国の視察だけでなく、 安政期に結ばれた条約改正の予備交渉を成すこ とも課題として挙げられていた。改正交渉は明治5 年5月26日から始められたが、治外法権や関税問 題などの不平等条約を改正するために欧米諸国 を視察し、情報を得ることと改正交渉の機会を探 ることが目的としてあった。 使節の派遣そのものには反論はなかったものの その随行者の人選には異論が出た。太政大臣・ 三条実美は木戸・大久保の両名が行くことを反対 し、井上馨も上司である大久保の渡海を反対し、 政局に空席を成さないよう懇願した。 だが、近代日本を構築するには是が非でも、欧 米列強の国政を直に視察する必要があり、政府 の開明派をこぞって連れて行くだけの意義がある として、岩倉の最終決断により人選は上記の面々 に決まった。 ただ、岩倉・大久保たちが気がかりとしたのは、 留守中の政局を統制する人材に不安が残ったこと だった。政府内では開明派と武断派の二極が存在 し、留守中組には武断派が占めていた。 西郷隆盛を筆頭に大隈重信、板垣退助、山県有 朋、江藤新平、後藤象二郎、井上馨らが顔を連ね ていた。 結局、これら留守組には極力、新規の政策は行わ せず、大久保が前もって準備しておいた政策だけ を実行するよう誓約を持って約束を求めた。 また、人事の異動や増減も極力成さずにもしも 、政策や人事に不祥事があれば、必ず使節団に 報告して、指導を仰ぐべきことを求めた。 こうした予防線を張ったものの大久保が欧州視 察中に急報を受け取って、日本に急ぎ帰国した 時には、全ての約束事が破られていた。 政策には新たな征韓論が巻き起こされており、 人事も汚職事件が摘発されて、山県有朋や井上 馨などが司法卿の江藤新平の手によって、辞めさ せられたり、窮地に立たされたりしていた。 こうした外遊組と留守組との間には、大きな政治 思想の格差が生じてしまう。富国強兵を最優先事 項とする外遊組と士族たちを保護するために征韓 論をぶち上げる留守組との確執は、後の士族の兵 乱へと続いていく。 その意味で、この使節団は、近代日本の行く先 を左右する大きな影響力を与えたことになる。 政治的思想を外遊によって、広げた大久保たちは 、欧米列強と方を並べる国力の増強を最優先とし 、対外政策に対して、友好を持って接することが 重んじられた。一方で留守組は直面する士族の 苦境を脱すことが優先事項となった。そのために 征韓論という無理な政策を執ろうとした。 この国内政策に縛られた政治思想は敗れ、開明 的な政治思想のもと、新政府は外国の文明を熱心 に取り入れ、文明開化が大いに発展していったの である。 使節団は太平洋を渡り、12月6日にサンフランシ スコに到着した。カリフォルニア州知事やサンフラ ンシスコ市長らの大歓迎を受け、使節団を驚かせ た。伊藤博文が「今日の我が国の政府や国民が もっとも切望していることは、先進諸国の文明の 最高点に早く到達することである」と演説し、大喝 采を浴びた。 使節団はその後、アメリカ大陸を東へ横断し、 1872年(明治5年)1月21日に首都ワシントンに到 着した。一行は大統領・グラント、国務長官・フィッ シュと面談し、丁重なもてなしを受けた。友好的な 大歓迎を受けた岩倉たちは、条約改正の交渉も 難しくないと考え、条約改正の交渉を持ち出した。 だが、予想に反して、アメリカ政府の対応は厳し く、条約改正で不平等条約の部分改正は成されず 、それどころか居留地の拡大や日本国内の旅行 、不動産取得のための内地開放、輸出税の全廃 など新しい条約項目を使節団に提案してきた。 そして、言論・出版・信仰の自由をも日本国内で 実施するよう強く求めてきたため、岩倉はそれは 十分に日本国内で保護実行されていると返答し たが、それならば、その確証を見せて欲しいと意 趣返しをされる始末で、使節団は外交交渉でおさ れ気味の展開となってしまった。 さらにこの予備的な条約改正交渉には、大きな 問題が浮上した。それは使節団が条約交渉の全 権委任状を持ってこなかったため、それをアメリカ 政府に指摘され、条約改正交渉が行き詰まりを見 せたのである。アメリカ政府の国務長官と交渉に あたっていた大使、副使、書記官たちは自分たち が天皇の信任を得ている者であるから心配ないと 説明しても、これは万国法規で定められたことで あるからミカド陛下の委任状を拝見したうえで交渉 いたしましょうと断られてしまった。 この問題を解決して、条約改正の譲歩を得たい 使節団は、急きょ大久保・伊藤の両副使を日本に 帰国させ、全権委任状を持ってこさせることにした 。が、そう事はうまく運ばなかった。留守政府にい た外務卿・副島種臣や外務大輔・寺島宗則らは、 使節の任務は条約改正の予備的意見交換にあっ て、条約改正を正式に行うには準備不足と反対し たのである。 準備も整えずに条約改正を行えば、かえって相 手方の思う壺にされ、もっと不利な条約を結ばさ れる可能性があると指摘し、全権委任状を大久保 らに渡すことを拒んだのである。 しかし、大久保・伊藤たちはいまさら手ぶらでアメ リカに戻ったとあっては、不名誉極まりないので、 寺島宗則が彼らに随行して、全権委任状を与える ものの都合があって、交渉は中止にするという方 針で問題を終息させることが提案された。 こうして、条約改正交渉は、留守組の外務系たち のしっぺ返しを受ける形で、歯止めが成される結果 となった。 アメリカでとんだ足止めをくった使節団は、7月3日 にアメリカを発ち、欧州へと向かい、リバプールに 到着した。 一行はイギリスではビクトリア女王にも謁見し、世 界随一の工業先進国の実状をつぶさに視察した。 大久保は日本に残った西郷に「英国ノ富強ヲナス所 以(ゆえん)ヲ知ルニタレリ」と報告しているなど、使 節団にとって、驚愕する体験が続いた。 イギリス・フランス・プロシア(ドイツ)へと視察した、 一行は、プロシアで鉄血宰相ビスマルクと会見し、 プロシアが英仏露など列強から独立と国権を維持 している富国強兵策について色々と聞かされた。 ドイツと同じ道を歩もうとしている黎明期の日本に 対して、ビスマルクは激励した。 このビスマルクの雄弁に感銘した大久保や伊藤は 帰国後に日本のビスマルクを気取って、日本の近代 化を目指すなど大きな影響を与えた。 ビスマルク謁見後、大久保はベルリンから急きょ 帰国したが、使節団はその後もロシア・オーストリア ・スイス・イタリアなどを視察して、6月8日にマルセー ユ港を出港して帰国の途についた。 使節団は1年10ヶ月かけて外遊し、100万円(※現 在のお金に換算してざっと100億円)の巨費を投じて 欧米列強の強さの秘訣を会得した。 この外遊は、日本の近代化を急がせる必要性が 最大優先項目として挙げられる根拠と成った。黎明 日本の新しい国体は、欧米列強と肩を並べる水準 にまで押し上げる必要性を政府首脳部たちに悟ら せたのである。 それは井の中の蛙が、世界の中で日本がどうあ るべきかを悟らせ、その処世術を学ぶことができた 貴重な体験であった。その後の日本が近代化に弾 みをつけ、つまづくことなく邁進できたのは、この外 遊以降をもってなされたことであり、外遊が意味する 歴史的意義は非常に大きなものを持っていたと言え るだろう。 |