征韓論



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政府を二分する激論


 征韓論は、西郷隆盛ら武断派政治家たちが国内
でその身の置き場所を無くした不平士族たちの問
題解消を成せる秘策として、打ち出された政策だ
った。
 西郷らが進めた政策は、確実に不平士族たちを
用いて、朝鮮半島を一挙に蹂躙して、日本国内初
の植民地にしようという壮大で無謀極まりない、卑
しむべき強硬政策であった。
 西郷隆盛には、青年の頃から抱いてきた大志が
あった。それは島津斉彬に抜擢される前の藩庁税
務助役を務めていた時までさかのぼる。
 西郷には、生涯を通じて精神の師匠ともいうべき
正義感に燃える上役がいた。名を迫田太次衛門
(さこだたじえもん)といった。郡奉行を務め、見識
高く、農民への情愛が強い人物であった。
 迫田は薩摩藩内にはびこる不正賄賂の実態を
嘆き、そのしわ寄せが農民たちに及んでいること
を心苦しく思い、常に公明正大な振る舞いに務め
、西郷のような正義感溢れる人物から支持を集め
ていた。だが、この迫田の正義感は、悪役人たち
の目障りとなり、根も葉もない罪状をかぶせられ、
無念の切腹となった。
 西郷は迫田の切腹を最後まで見届け、迫田の意
志を受け継ぐことを誓ったという。この時から西郷
は、貧苦にあえぐ農民たちを救う新しい日本を目
指し、幕末動乱を飛び回った。
 そして、維新を迎え、新しい日本を築き上げる段
階へと来た。しかし、そこには欧米列強による外夷
から日本を守るためになんとしても富国強兵策を
成さなくては成らなくなった。
 貧苦にあえぐ農民たちに再び、重課が成され、
あまつさえ、士族たちも貧苦するようになってしま
った。この国内問題を一挙に解決するには、対外
における植民地政策を推進する以外に、画期的な
解決策はないというのが西郷の念頭にはあった。
 横暴極まりないこの対外遠征に対して、西郷が
躊躇することなく推し進めたのは、国内で苦しむ
人々を救わんがための良心から出た答えだった。

 しかし、そこには欧米列強と肩を並べることが最
大優先事項とする外遊組には、理解のできない
方策であったのだ。
 大久保たちは、内地整備が急務とし、財政赤字
や輸入の増大による国富の流出、そして、朝鮮と
戦争となれば、莫大な費用がかさみ、両国の疲弊
につけ込むであろう欧米列強の怖さを指摘し、朝
鮮への非礼だけを責めて、戦争するのは筋が通
らないと征韓論に反発した。

 西郷たち征韓論派は、大久保たち反対者が帰国
する前に決議されたことを主張し、西郷を使者と
して朝鮮に出すことを強硬しようとした。
 朝鮮への使節を出すには、最後に天皇の許しを
得なくては成らない。西郷たちは太政大臣である
三条実美に決議された内容を天皇に上奏するよう
求めたが、岩倉・大久保ら反対者からも強硬な反
対があり、西郷、大久保の狭間に立たされた三条
は苦悩のあまり精神異常をきたして政務を執るこ
とができなくなってしまった。
 仕方なく、三条の代理として太政大臣代理に就
いたのが岩倉であった。大久保と同じく征韓論に
反対する岩倉が太政大臣となったことを知った
西郷・江藤らは、早速岩倉のもとへ赴き、すでに
閣議決定されている朝鮮使者派遣を天皇に上奏
するよう求めた。
 しかし、岩倉は頑としてこれをはねつけ、上奏し
ない。江藤は得意の理論をぶち上げて、岩倉に
上奏を強要したが、それでも岩倉は斥ける。
 結局、西郷たちを斥けた後、岩倉は朝鮮使者派
遣が閣議決定されたこととは反対のことを天皇に
上奏し、受理された。
 閣議決定の内容を偽り、征韓論を斥けた岩倉た
ちに憤激した西郷たちは、あっさりと辞表を提出し
、政府を去った。
 西郷とともに板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・
副島種臣らも辞表を提出した。また、西郷の部下
である桐野利秋や村田新八たち軍部の者たちも
多く辞めた。

 西郷たち征韓論者が政府を去るとその政府要職
には、伊藤博文・勝海舟・寺島宗則らが就き、辞め
た近衛兵士官も新たに士官学校を卒業した者たち
を補充させて、再編成された。
 こうして、大久保たちは、征韓論者たちが政府を
去った後の穴埋めを進め、大久保はこの政府内の
横暴が再び起きないよう、自ら内務卿となり、政府
の主権を掌握した。

 政府の内部分裂をこの事件以降は、未然防ぐこ
とに務め、一方では不平士族の反乱に備えた動き
を執り、未然に兵乱を防ぐよりも誘発させて、後顧
の憂いをなくす方針さえ打ち出していく。
 こうして、非情政治家・大久保利通の本領が発揮
されていくのだが、そこには征韓論によって、一時
は、国政方針をめぐる抗争に発展しかけたことへ
の教訓があっての処置であった。
 かつて、徳川家康が「非情にあらずば、天下は取
れず」と豪語したように大久保利通は、この考え方
を継承したのであった。
 大久保が外遊から急きょ、日本に帰国した時、
出発前の政府内の様子はガラリと変わっていた。
司法卿の江藤新平がやり手の力量を発揮して、大
久保が決めた人事をミルミル変えてしまい、独占
的な勢いさえ見せていた。
 こうした政局の覇権をめぐる激しい抗争を見た
大久保にとって、非情をもって行わなければ、自分
が目指す理想国家の実現は不可能と考えたのだ
。そこに大久保の非情政治を執った真相が見えて
くる。一度、江藤らに奪われかけた政府の実権を
再び取り戻した大久保の執拗な追撃は、不平士族
の討滅という厳しい姿勢に現れている。
 一方で、これら不正士族に対して、同情的であっ
た西郷が、西南戦争にて朋友であった大久保から
非情な切り捨てにされたのも、貫徹すべきは友情
にあらず、正当な国政にあるとする強い姿勢がも
たらした悲劇であった。





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