1871年(明治4年)11月、沖縄の那覇港を出港し た船が台湾の牡丹社(ぼたんしゃ)に漂着した。 この時、漂着した琉球漁民66名が台湾原住民の 高砂族(たかさごぞく)に襲撃され、54名が殺戮 された。 生き残った12名が清国に救われ、事の次第が 日本へも伝わった。沖縄は、長年に渡って日本と 中国の両属の関係を取り、事件が起きた時も、 あいまいな状態が続いていた。 これを危惧していた政府は、この台湾で発生した 問題を契機として、沖縄を日本へ帰属させようと 考えた。しかし、清国も最初は、日本に対して強気 で応じ、なかなか沖縄の属国主張を取り下げなか った。 琉球の支配権を持つ鹿児島では、不平士族たち が一斉に台湾とそれを属国と主張している中国を 非難した。一戦交えるも辞さずと強硬意見が飛び 交う中で、西郷や副島種臣はこの主張を抑えて、 交渉を行うこととした。 北京で開かれた会議では、清国側は台湾の原 住民までは法治が及ぶものではないと逃げ口上 を述べたため、日本は独自で対処すると明言して 、会議は打ち切られた。 西郷たちは台湾へ出兵する準備を進め、陸軍 大輔・西郷従道に台湾出兵の手配を任せたが、 征韓論が浮上し、この問題のために台湾出兵は しばらく中止となった。 その後、征韓論で敗れた西郷たちは下野した後 、保留されていた台湾出兵を今度は大久保が取り 上げた。これには木戸孝允が猛反対して、結局は 物別れとなり、木戸は辞職した。 それでも大久保は台湾出兵を強硬に進め、1874 年(明治7年)4月、陸軍中将・西郷従道を台湾蛮 地事務都督とし、陸軍少将・谷干城、海軍少将・ 赤松則良らを従軍させ、台湾出兵を実行した。 大久保は、台湾遠征に際して、物資輸送をアメリ カの船を借りて、用を済ませようと計画していたが 、日本の植民地支配に協力することはできないと 反発したイギリス公使・パークスの横槍で、船を 借りることができなくなってしまった。 輸送船が手配できなくなってしまったため、大久 保は、急ぎ長崎へ向かい出征を延期しようとした が、すでに軍船は出港しており、大久保は大弱り した。だが、遠征軍は台湾の牡丹社に到着して わずか一日で攻略し、遠征戦は手間がかからな かった。 遠征に際して汽船を購入した政府は、この汽船 を全て、岩崎弥太郎が経営する三菱会社に貸し、 軍事輸送の一切を任せた。 戦後はその汽船を無償で三菱に下げ渡し、政府 は国内の運輸業を発展させることに力を入れた。 台湾出兵で痛感した日本の海運業の弱さを鍛える ことが日本近代化には不可欠との判断が成された のである。 |