荒れ狂う天誅、横行す!



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過激尊攘派の横行


 幕府は、対外政策での独断で全国から批判を浴びるとこの苦境を打開すべく、朝廷の抱き込みを図った。
 和宮降嫁を実現させることで、幕府と朝廷の結びつきを強めることで、国内統制を維持しようとしたのである。諸藩に対しては、武力でこれを治め、朝廷には血脈をもってこれを治めよというのが徳川家康の遺言であった。
 この幕府伝統の統治技法を幕末に至っても、まだ執り行おうと勤めたのは、律儀な幕臣のサガというべきであろうか。

 幕府が引き出した公武合体策は、薩摩藩の島津久光の登場で幕府は、大きなしっぺ返しを喰らうことになる。公武合体策を一歩進めて、幕政改革と雄藩大名による合議制を設置、朝廷をも含めた多極集合政権を樹立しようとしたのである。
 幕府は薩摩藩の武力による強請に従わざるを得なくなり、国政の中心は江戸から京都へと移っていくこととなる。
 諸藩は今まで江戸に藩の支店を置いてきたが、今度は京都が政局の中心になると見るや、京都へ続々と支店を出してきた。
 こうして、京都はさびれた都から一挙に賑わいを取り戻し、諸藩の藩士たちが入り乱れる雑多な世界を作り上げていった。

 混雑する京都でにわかに政局の華となったのが急進的な尊攘派志士たちの人斬りであった。
 彼らは「天誅」と称して、過激なテロ行為を成し、京都の町を我が物顔で闊歩した。
 尊攘派の志士たちの恨みをかったのは、安政の大獄にかかわった幕府関係者やその協力者、そして和宮降嫁に関与した者たちであった。
 特に和宮降嫁を成して、幕府を擁護するような行為を行ったとして、岩倉具視、千種有文(ちぐさありふみ)、富小路敬直(とみのこうじひろなお)、久我建通(くがたけみち)、そして女官の今城重子(いまきしげこ)、堀川紀子(ほりかわもとこ)の計六名で、彼らは「四奸二嬪(よんかんにひん)」と呼ばれて、真っ先に槍玉に挙げられた。
 これら佐幕派公卿が尊攘派志士たちから批判を受けていることを察した三条実美(さんじょうさねとみ)や姉小路公知(あねがこうじきんとも)らが、彼らを弾劾して、役職罷免・廷外退去の処分とした。

 この朝廷内の動きを見た尊攘派志士たちは、「四奸二嬪」を親戚ともども皆殺しにすると脅迫し、佐幕派の弾圧を開始した。
 中山忠光などは土佐勤王党の武市半平太に佐幕派公卿の斬殺をけしかけるほどだった。これら一連の弾圧を受けた「四奸二嬪」の六名は、人目を忍んで洛外へと逃げ出していった。






安政の大獄への報復テロ


 ”天誅(てんちゅう)”と呼ばれた尊攘派志士たちのテロ行為は、「四奸二嬪」への排斥運動が盛んに成っていた時期に起きた。
 1862年(文久2年)7月20日、九条家の家臣・島田左近が斬殺された。島田は安政の大獄の際に井伊直弼の腹心だった長野主膳に協力した人物で、尊攘派志士たちの間で前々から憎まれていた人物の一人だった。
 島田の死体は首がない状態で高瀬川に浮かんでいたという。島田の首は四条河原にさらされた。
 この天誅実行犯は、薩摩藩士・田中新兵衛らであった。この天誅事件を公卿の近衛忠房は「希代希代の珍事、祝すべし祝すべし」と手放しして喜んでいる。多くの尊攘派志士たちも田中らの過激な行動に拍手喝采して、支持した。

 そのため、天誅事件はその後も頻発するようになった。8月に入るとやはり九条家の家臣・宇郷重国(うごうしげくに)が斬殺され、首を松原河原にさらされた。ついで、目明かしの文吉が三条河原でさらし首となり、天誅が横行化した。
※目明かしとは、江戸時代、与力・同心の私的な扶持(ふち)をうけて犯人の捜索・逮捕に協力する町人身分の者のこと。岡っ引き。手先。 文吉は長野主膳の手先となって、安政の大獄に暗躍した人物の一人であった。下手人は土佐勤王党の岡田以蔵(おかだいぞう)であった。
 岡田はケチな下っ端役人を刀で斬っては大事な刀が汚れるといい、文吉を綱で扼殺(やくさつ)して天誅を成した。

 天誅の横行は次から次へと飛び火し、志士たち同士の意見の食い違いによる斬殺まで発展した。
 清河八郎や真木和泉と親交のあった志士・本間精一郎(ほんませいいちろう)が斬殺され、その首が四条河原にさらされた。
 土佐藩の岡田以蔵の犯行で、薩摩・長州・土佐を批判する者への見せしめとした。
 こうして、天誅行為は単なる佐幕派への弾圧だけにとどまることなく、志士同士の対立抗争による末路として、利用されるようになった。
 言わば、内ゲバ行為が天誅行為の名のもとに堂々と行われたのである。※内ゲバとは、(ドイツ語の Gewaltの略)(一組織内、あるいは類似の傾向をもつ党派間で)主導権争いのために行われる暴力的な内部闘争。

 9月に入ると京都町奉行所の与力・同心四名が岡田以蔵、田中新兵衛、長州藩士・久坂玄瑞らによって、斬殺された。薩長土の三藩出身の志士たちが結託して行った天誅行為であり、三藩は互いに競うように天誅行為に熱中した。
 10月には、万里小路家の家臣・小西直記が斬殺され、11月には、長野主膳の妾で大獄の際に弾圧対象者の身辺を探索した村山可寿江(むらやまかずえ)が三条大橋に縛り付けられ、生きさらしとなった。村山は元々、井伊直弼の妾で、それを長野がお下がりで妾としていた。
 女性ということで、罪一等を免れたのであったが、彼女の息子・多田帯刀は長野の部下であったことから、斬殺された。
 この天誅行為は、京都所司代による取り締まりを受けることはほとんどなかった。これは、下手人を逮捕すれば、過激な尊攘派志士たちを刺激して、より大規模な兵乱を引き起こしてしまう可能性があったため、手出しできなかったのが実状であった。

 そのため、幕府はこれら天誅行為を私怨による犯行と見なし、政治闘争における犠牲者とは見なさなかった。幕府による取り締まりがない京都では、天誅実行犯が、大きな顔をしてまかり通り、無法地帯と化していた。






洛中を狂乱させた天誅


 1862年(文久2年)10月〜11月にかけて、諸藩の大名や将軍後見職の一橋慶喜が続々と京都に入洛してきた。これは将軍・家茂の上洛準備のためで、天誅騒動が最盛期を迎えていたのと重なって、洛中は大いにごった返した。
 将軍が上洛するとあって、幕府に関与した人物の天誅はますます盛んになっていった。12月には、老中安藤信正の指示で「廃帝」の先例調査を行ったと噂がたった和学者の塙次郎(はんわじろう※塙保己一の子)が江戸で斬殺され、1863年(文久3年)1月には、安政の大獄に関与した儒学者の池内大学が斬殺された。
 また千種家の家臣・賀川肇(かがわはじめ)が斬殺され、賀川の両腕が千種・岩倉両家の屋敷に投げ込まれ、公卿を脅迫した。
 ついで、出入りの百姓・惣助の首が土佐藩邸の塀にかかげられ、尊攘派に同調しない佐幕派の土佐藩主・山内容堂への脅迫とした。

 政治に関与した人物たちだけでなく、商人などへも脅迫は行われた。諸外国との貿易で莫大な利益を上げていた貿易商人・三井八郎右衛門や京都の近江屋忠五郎などが脅迫された。
 商人たちへの脅迫が相次ぐとこれを恐れた商人の中からは、被害にあう前に天誅志士たちへ謝罪しようとする者も現れた。
 生糸貿易商を営む布屋市次郎、彦太郎などは、三条大橋に謝罪の張り紙を出して、天誅を逃れようとした。

 幕府は京都の取り締まりを強化することなく、天誅行為を見逃してきた。下手人の捜索も積極的にはせずに、過激派尊攘志士たちを刺激しないように極力勤めてきたが、2月になって、幕府も我慢がならない事件が起きた。
 洛西等持院に安置されていた足利三代の木像の首と位牌(いはい)が何者かに持ち出され、賀茂河原にさらされた。三条大橋には、「今世にいたりこの奸賊になお超過する者あり」と徳川幕府を暗示させる捨て札が掲げられた。
 幕府を脅迫するこの天誅行為には、幕吏も敏感に反応した。何しろ、将軍後見職の一橋慶喜が憤激し、京都守護職に就任していた会津藩主・松平容保に下手人捜索を徹底させる厳命を下したのである。
 幕府の威信にかけて、足利三代の木像事件を犯した下手人の捜索がなされ、ついに平田篤胤の門下生9名を捕縛した。
 だが、これら下手人への処罰は朝廷や尊攘派志士たちへを刺激することを恐れて、軽い処分で済まされた。他藩への御預けというなまやさしい寛大な処分に終るとますます、尊攘派志士たちは幕府をないがしろにするようになり、意気揚々と京都中を闊歩した。
 幕府の尊攘派への反撃は、会津藩が組織した新選組の登場を待たなくてはならず、その間は、ただただ、指をくわえて、尊攘派志士たちが成す天誅行為を見逃さざるを得なかった。





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