佐賀の乱



幕末維新 出来事一覧へ












大久保の政敵・江藤、佐賀に兵乱す!


 中央政府にあって、江藤新平はまさに勇躍して
いた。あの豪腕政治家・大久保利通をも組み伏せ
る勢いを見せた江藤の政治手腕は、鋭敏にして他
者への攻撃凄まじく、比類なき理論主張の大家で
あった。

 この佐賀藩出身の敏腕政治家によって、佐賀藩
は、西南雄藩の中で乗り遅れを挽回することがで
きたのである。薩長土肥といわれる藩閥政治を
形成できたのも、江藤の尽力あって構成できた四
枠なのである。
 江藤の活躍とは裏腹に、彼の故郷である佐賀で
は、あまり江藤を高評しない集団がいた。それは、
元秋田県令・島義勇を首領とする攘夷主義的な憂
国党であった。
 江藤が首領となっている征韓党とは、仲が悪か
ったが、政府が次々と廃藩置県・秩禄処分・脱刀
令・徴兵令などを打ち出し、士族の存在を脅かす
と両派は政府に対して同じ不満を抱えるようになり
、一致協力して政府に反発するようになった。

 しかし、このことが、逆に政府に危険分子と見な
され、不平士族を討滅すべく兵乱を誘発させる挑
発的行動を政府が彼らの目の前にちらつかせた。
 これに発奮した佐賀の不平士族たちは、挙兵を
しかねない情勢までなってしまった。これに驚いた
江藤は東京より、急きょ佐賀へと帰郷し、兵乱暴
発を抑えようと説得工作を試みた。
 しかし、逆に政府の要職を務めた佐賀藩の出世
頭が佐賀の不平士族を支援するために帰郷する
とのうわさが飛び、江藤が佐賀に到着した頃には
、士族たちの大歓迎が行われた。
 江藤の挙兵を抑える説得工作は、かき消され、
江藤を盟主とする挙兵一団が結成されたのであ
る。まさに江藤はミイラ取りがミイラになった状態
であった。本人の意志に反して、挙兵運動はます
ます激しさを増し、江藤もこの狂乱を抑えるよりも
新政府側に強硬な姿勢を見せて、我々の主張を
認知させる方が良いかも知れぬと思うようになっ
ていた。

 しかし、この佐賀の乱は大久保の思惑通りに運
び、鎮圧軍をすでに編成するなど、首尾よく準備を
整えていた。特に大久保は、自分の座をも脅かし
た政敵として江藤を認知していたため、私怨も込
めた鎮圧政務を執っていた。
 嘉彰親王を征討総督とし、陸軍中将・山県有朋
、海軍少将・伊東祐麿を参謀としてつけ、近衛兵
団や東京鎮台兵団を派兵した。
 すでに兵乱は熊本鎮台の手でかなり鎮圧されて
いたが、それでも出兵を命じたことは、不平士族の
鎮圧を全国に示すとともに大久保が私怨に燃える
打倒江藤の事情があったためである。
 江藤は西郷を頼って、鹿児島に逃れた。西郷は
江藤が政府から逃れる道は薩摩藩の島津久光を
頼る以外にないと進言した。
 今の政府主権は大久保が牛耳手いる。この大久
保の暴挙を押さえ込めるのは、大久保の前の主
君であった島津久光以外にいなかったのである。
 しかし、江藤はこれを断った。久光の卑屈な人間
性を好きになれなかったし、政論もまったく異なっ
ていたため、頭を下げてまで頼る気になれなかっ
たのである。
 この最後の頼み綱を自ら断ち切ってしまった江
藤は、政府の執拗な追跡を受け、とうとう四国の
地にて、逃避行に終止符を打った。
 大久保の執拗なまでの私怨を受けた江藤は、か
つて司法卿として辣腕を振るった偉大な業績を残
しつつ、自ら極刑を持って裁かれてしまったので
あった。
 死に臨んで江藤は、「ただ皇天后土(こうてんこ
うど)のわが心を知るのみ」と高らかに吠えて、42
歳の生涯を閉じた。
 大久保は江藤の死について日記に「江藤の陳
述曖昧(あいまい)、実に笑止千万、人物推して
知られたり」と最後まで政敵・江藤新平への憎しみ
を込めた感想を記している。





幕末維新 出来事一覧へ