神風連の乱



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神慮に頼る憂国の集団


 幕末の肥後の地で勤王の華が咲き乱れたのは
、林桜園(はやしおうえん)の影響による。彼は、
敬神思想と神秘主義を奉じて、妥協を許さない徹
底した攘夷思想を展開し、1870年(明治3年)に彼
が死んでも、その伝承を守る人々がいた。
 その中から急進的な行動を取ったのが、”人斬り
彦斎”で名を馳せた剣客の河上彦斎(かわかみげ
んさい)、神官の大田黒伴雄(おおたぐろともお)、
加屋霽堅(かやはるかた)らの集団で、これらは、
敬神党とか神風連と呼ばれていた。

 彼らは時代の流れを無視し、とにかく徹底した
国粋主義者で、神事を中心とした信仰集団を形成
していた。そのため、肥後の地に入ってくる西洋文
化を嫌い、電柱の下を通る時は、扇を頭の上にか
ざして、汚れないようにし、洋服を着た人とすれ違
えば、家に帰って、体中に塩をかけて汚れを取り
除くといった徹底振りであたった。

 明治政府が推進する国内の西洋化を激しく非難
し、欧米諸国と仲良くする政府に我慢が成らなか
った。
 彼らが政府に対して不満を募らせていたころの
1875年(明治8年)に政府が千島・樺太(からふと)
交換条約を成すと、神風連はこれに反対し、挙兵
しようとしたが、神慮を伺ったところ不可と出たた
め、思いとどまった。
 しかし、翌年の1876年(明治9年)に廃刀令が公
布されると、ついに彼らの堪忍袋の緒は切れた。
 彼らは大田黒を指揮官として、挙兵することを決
し、神慮も挙兵すべしと出たため、挙兵準備もいい
ころ加減にして、挙兵した。

 1876年(明治9年)10月24日に起きた神風連の乱
では党員合わせて170名余が参加し、藤崎八幡宮
境内から進発し、県庁と兵営を襲撃した。
 彼らの挙兵姿は、甲冑姿に神棚を背負って、出
陣する者まで出て、大いに時代錯誤のあるいでた
ちであった。
 彼らは県令・安岡を襲い、重傷を負わせた(のち
に死亡)。熊本鎮台司令官・種田少将の宿舎も襲
い、重傷を負わせた(翌日に死亡)。

 神風連の乱は不意の出来事であったため、鎮台
兵とて最初は襲撃に慌てて、逃げ惑ったが二の丸
が炎に包まれ、周囲が明るく照らし出されると、挙
兵した敵の人数が少なかったことがわかり、即座
に反撃に出た。
 こうして、大田黒・加屋ら指導者たち28名が討死
にし、逃れた者の大半は自刃して果てた。無事に
逃れたのはわずか4名だけだったという。

 神風連の乱は、変わり行く日本の将来に国粋主
義者たちは漠然とした不安を感じ、国体の進むべ
き道を問いただす目的を持って、政府批判や挙兵
といった行動に出た。





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