萩・秋月の乱

思案橋事件



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不平士族の兵乱 長州にまで達す!


 肥後で神風連の乱が起こると福岡の不平士族た
ちも大いに盛り上がった。旧秋月藩士・宮崎車之
助らは挙兵し、500人余の集団で神風連を応援し
ようと動いた。
 しかし、神風連の乱はわずか1日で鎮圧され、そ
の報告を受けた宮崎らは援軍に出ることを留まっ
た。しかし、今さら旗揚げを下ろすわけにも行かず
、豊前豊津の不平士族を扇動して、萩の前原一誠
と合流しようとしたが、小倉の鎮台兵に鎮圧されて
しまった。

 萩の乱を起こしたのは前原一誠であった。前原
は松下村塾出身で、干城隊(かんじょうたい)の副
総督となり、第二次長州征伐に活躍した。
 戊辰戦争では山県有朋に代わり、北越軍参謀
を務め、長州藩武断派として新政府にも参画した
。1869年(明治2年)に越後府知事となり、信濃川
治水工事を推進し、水害に苦しむ農民を助けるた
めに一帯の税金を半減する情け深い政策を執っ
た。しかし、勝手な税収半減を進めた前原を政府
は批判し、政府高官から不評を買った。
 その後、参議となり、木戸や大久保たちと肩を並
べたが、非情な政策を執る彼らとは意見が合わず
、職を免ぜられた。
 その後、暗殺された大村益次郎の後任として兵
部大輔(ひょうぶたいふ)に就き、兵制の整備に尽
力しようとした。しかし、その時、起きた脱隊兵事
件で、木戸は討伐することを主張し、ここでも意見
が合わず対立し、結局前原が職を辞して萩へ帰っ
てしまった。
 前原は非情なまでの合理主義を貫こうとする木
戸や大久保たちと考え方を相容れなかったので
ある。
 その後、江藤新平が佐賀の乱を起こすと、萩の
不平士族たちも前原一誠を首領に担ぎ出して、兵
乱を起こそうとしたが、前原はこれを抑え、暴挙に
出ることを諌めた。
 しかし、前原が不平士族の中枢にいることに疑
念を抱く木戸や伊藤博文たちは、密偵を放って、
前原の行動を監視させた。これには前原もイラツ
キ、仕舞いには神風連や秋月の乱へ同調し、つい
に蜂起することを決した。
 10月28日に前原軍は山口県庁を襲撃しようとし
たが、政府軍が出動した報告を受け、いったん海
路に出て島根へ向かうことにした。
 そして、スキをみて31日に萩へ戻り、大砲にて政
府軍へ奇襲攻撃を仕掛けた。不意をつかれた政
府軍は苦戦を強いられたが、二日ほどやり合うう
ちに、前原軍の攻勢が弱まってきた。
 食糧・弾薬も少なくなり、軍勢も疲労が強くなって
きた前原軍は、防戦一方へと転じていった。政府
軍は増援を得て、海上より軍艦の援護砲撃をもら
い、激しい攻勢を成し、一時は500名を超える盛況
振りを見せた前原軍も大敗した。
 漁船で逃亡を成した前原だったが、暴風雨に行く
手をさえぎられ、一時非難しようと出雲宇竜崎に
寄ったところを捕縛された。
 前原ら主導者8名が斬首され、48名が懲役刑を
喰らい、403名が無罪放免となった。

 江藤新平に続いて、幕末維新の功臣である前原
が散り、いよいよ大御所・西郷隆盛の最大挙兵が
起きるのであった。

 前原と打ち合わせをしていた旧会津藩士・永岡
久茂らは、前原挙兵の報せを暗号電報で受け、
これに呼応するように挙兵した。
 同志十数人とともに千葉県庁を襲い、佐倉兵営
から武器弾薬を奪う算段だったが、武器を携えて
千葉通いの船が通る隅田川河岸の思案橋まで
来たところ、警察の包囲を受け、大格闘の末に
捕縛され、鎮圧の憂き目を見た。






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