西南戦争



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不平士族 最後の争乱


 征韓論に敗れた西郷隆盛は、下野すると故郷・
鹿児島へと帰郷した。西郷は鹿児島にて若者たち
を指導し、新しい近代日本を築く人材育成に励ん
だのであった。
 この西郷の姿勢に共鳴した桐野利秋、篠原国幹
、大山綱良らは、積極的に西郷に協力し、私学校
の興隆に勤めた。さしずめ西郷王国とでも称する
かのごとくに鹿児島は、西郷中心に動いていた。
西郷隆盛という英雄を頂いた鹿児島は、民衆に
不評の明治政府を改善させるためのよき人材の
育成に力を入れたのであった。
 しかし、ことはそううまくは運ばなかった。不平士
族の不満はすでに限界に達し、新たな人材育成を
形成するまで一刻も耐え忍ぶことができないところ
まできていた。
 新政府が不平士族を徹底的に踏み潰し、独占
的な政治を執り行う以上、不平士族の不満はいつ
かは爆発する構造となっていた。

 佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と
次々と不平士族の叛乱は続いたが、いずれも夢
を成就することなく散っていった。
 そして、明治政府は最後の不平士族の巣窟と
なっている鹿児島へと注意が向けられ、西郷隆盛
という偉人の行動を監視するようになった。
 この疑念をもって鹿児島を監視する新政府の行
動に西郷が開く私学校の若者たちは敏感に反応
した。

 西郷王国と化していた鹿児島には、薩摩藩時代
から製造していた兵器・弾薬が大量に貯蔵されて
おり、西郷たち私学校の組織が不穏な動きを成し
ているとの報告を受けた明治政府の陸軍省は、
ただちに鹿児島にある武器・弾薬を大阪へと移す
ことに決めて、三菱汽船にて積込み作業を開始
した。
 しかし、この政府の行動を察知した私学校党は
、1877年(明治10年)1月29日未明から火薬局や
海軍造船所を襲撃して、武器・弾薬を奪還する
に至った。
 武器・弾薬の奪還を成した党員たちは、気勢を
挙げて、鹿児島に帰省していた中原尚雄(なかは
らひさお)警部補ら21名を捕らえ、激しい拷問の
末に西郷暗殺の密命を政府から受けていたことを
自白した。
 この自白を契機に党員たちは、ますます気勢を
挙げて、明治政府を非難し、武装蜂起を成して、
国政の即刻改善を求めて、明治政府を糾弾すべ
しと息巻いた。

 私学校党員による暴動を知った西郷は「しまっ
た」と一声挙げたが、これ以上は党員たちと共に
死を覚悟して、新政府に対して改善の要求行動
を起こす他はないと悟った。
 西郷は私学校に鹿児島県令・大山綱良を招き、
挙兵上京する旨を正式に伝えた。それと共に方々
から私学校に集まってきた西郷支持者たちによる
兵団が結成され、歩兵五大隊と砲兵二大隊が編
成された。
 一大隊の兵員を二千名とし、合計でおよそ一万
四千名という大部隊での出陣となった。
各部隊の指揮官は次のとおりであった。
 一番大隊長ー篠原 国幹
 二番大隊長ー村田 新八
 三番大隊長ー永山 弥一郎
 四番大隊長ー桐野 利秋
 五番大隊長ー池上 四郎
 六・七番連合大隊長ー別府 晋介

 この西郷軍たちは2月15日、50年ぶりという
大雪の中を出陣した。
熊本に入った西郷軍は、第一の関門となる熊本城
に駐屯している熊本鎮台の兵団とぶつかった。
当初、西郷たち司令官は、熊本鎮台は戦わずして
、城門を開いて歓待してくれるものと決め込んで
いた。
 幕末維新の英雄・西郷隆盛が上京するために
進軍してきたというのだから、熊本鎮台はそれに
一も二もなく従うものと考え、熊本に入るにあたっ
て、先に熊本鎮台へ書状を送り、西郷軍の進軍
するいきさつを伝えていた。
 しかし、熊本鎮台では、武器を所持して多人数
にて行軍するは、暴徒の類として、この進軍を阻
止することこそ、鎮台の役目と言い放って、西郷
軍と対決する姿勢を見せた。

 この熊本鎮台の身構えに対しても西郷軍の司
令官・桐野利秋は農兵の如き鎮台兵など恐れるに
足らずと豪語して、一戦にて勝敗を決する自信を
見せていた。

 一方で、熊本鎮台兵を指揮するのは、土佐藩
出身の谷干城(たにたてき)であった。谷は西郷
軍襲来の予見していた陸軍参謀の山県有朋から
戦い方は任せるが熊本鎮台だけは死守するように
という厳命を受けていた。
 そこで、谷は自軍の鎮台兵の能力を査定し、い
かにして戦うべきかを思案した。その結果、谷は
以下の三つの観点から熊本城に徹底篭城戦を
展開することに決した。
 @鎮台兵の兵力数は敵軍よりもかなり少ない
  4300名ほどであり、まともに1万数千もの
  敵軍と戦うことはできない。
 A熊本にも西郷軍に呼応する不平士族がおり、
  下手に守備範囲を広げて戦えば、西郷軍に呼
  応する熊本士族が敵対してきて、どこから敵
  兵が現れるか見当がつかない。
 B鹿児島から出陣してきている西郷軍は、気勢
  が揚がっており、勇敢に戦う気概が強い。
  まともに平原で戦えば、多大な被害をこうむっ
  て、大敗する可能性が高い。
  大敗を喫した後で、熊本城へ逃げ戻って篭城
  しても戦意を失った兵団で死守することは不可
  能と判断できる。
以上の分析から熊本鎮台司令長官・谷干城は、
熊本城に篭城して、徹底篭城戦にて西郷軍を迎え
撃つ決断を下した。
 これには当初、参謀の樺山資紀(かばやますけ
のり)が反対したが、鎮台兵が訓練が未熟な烏合
の衆であることを見て、一変して徹底篭城戦に従
っている。

 篭城準備をしている慌しさの中で、熊本城の天
守閣が焼け落ちるという事件が起きた。原因は
不明であったが、この時、城内に蓄えていた食糧
も焼失してしまった。
 しかし、このことで、鎮台兵たちは必死になって、
食糧調達に奔走し、ついには前よりも多くの食糧
を獲得することに成功している。

 1877年(明治10年)2月22日から西郷軍は熊本
城を包囲し、猛攻撃を開始した。西郷軍は、熊本
鎮台が農兵による未熟な部隊と聞いていたので、
一戦でカタがつくと考え、怒涛の突撃戦を敢行
した。
 しかし、熊本鎮台側も勇敢にこれに応戦し、激し
い砲撃戦が展開され、「砲煙、天を覆い昼なお夜
のごとし」と記されるほどの大激戦となった。
 城兵たちは何時間もの銃撃戦のために鉄砲を
打つ引き金にかける右手人差し指がはれ上がり、
曲げ伸ばしもできないほどだったという。

 この激戦で西郷軍は、強硬な突撃戦は愚策と判
断し、もっぱらにらみ合いのこう着状態と化した。
こうなると西郷軍はなんとしても熊本城を落とし、
熊本城を根城にして、新手の新政府軍と戦う準備
を整えなくてはならなくなった。
 そのため、西郷軍は熊本城に降伏勧告の書状を
投げ込んだり、敵軍を罵倒して、城外に誘い出そう
と必死に策略を展開した。
 しかし、熊本鎮台側はこの挑発に乗らず、援軍
が来るまでは、ただただ城を死守することだけを
念頭に置いて耐え忍んだ。

 そうこうしているうちに新政府側も熊本鎮台救援
部隊を編成し、大部隊による西郷軍の追討が成
された。黒田清隆が率いる背面軍と呼ばれる別働
旅団が八代に上陸し、熊本県南にいた西郷軍を
駆逐して、川尻を奪い、そのまま熊本城下へと進
軍していった。
 熊本城へ活路を開いた黒田隊が到着するまで、
実に熊本鎮台は54日間の篭城戦を耐えた。
これによって、西郷軍は熊本城の包囲を解き、撤
退を開始した。

 熊本城包囲を解いた西郷軍は、いったんは熊本
へと向かったがその後、植木の西方に位置する
田原坂に布陣した。この地は天然の要害で、坂道
が幾重にも曲がり、険しい道並みで左右には断崖
がそそり立っていた。
 昼でも薄暗いこの天然の要害・田原坂を熊本士
族たちは「腹切峠(はらきりとうげ)」と呼んでいた。
というのも、この要害の地を攻め込まれるような
ことがあれば、もはや抵抗しても無駄であり、切腹
して果てる以外にはないということであった。

 西郷軍はこの地を最後の拠点と定めて、絶対死
守の構えを見せ、この要地の道脇に穴を掘って
隠れ、道には大木を倒し、大石を積み上げて、
敵軍の進入を阻止するといった防備を固めてい
った。
 また、西郷軍には薩摩士族だけではく、熊本士
族も大勢参軍しており、彼らは現地の地理に詳しく
、官軍の裏をかく作戦を立て、神出鬼没のゲリラ
戦を展開し、新政府軍を散々に苦しめた。

 田原坂の緒戦では、官軍優勢に戦闘が展開され
ていったが、西郷軍の第二陣にぶち当たった時点
から戦闘は西郷軍優勢に展開されていった。
 それというのも、西郷軍は決死の抜刀兵を組織
し、気迫で官軍を打ち破っていったのであった。
この抜刀兵の凄まじさに官軍の士気が低迷したこ
とを受け、官軍側でもこれに対抗する狙撃部隊を
編成し、狙い撃ちを試み、西郷軍側の司令官・篠
原国幹を打ち倒すなど戦果を挙げた。
 だが、その狙撃隊までもが抜刀兵の度重なる
襲撃によって、ほとんどが討ち取られていしまう
という事態に陥り、ついには官軍側でも同じく剣術
に長ける抜刀隊を組織した。
 100名からなるこの抜刀隊は、ゲリラ戦のように
敵に近づき、本陣と呼吸を合わせて、一挙に敵陣
になだれ込み、敵を切り伏せるという離れ業を
敢行した。

 こうした激戦の展開がしばらく続いたが、3月20
日未明、激しい風雨の中、ついに堅固な田原坂の
防備を打ち破った官軍は、ようやく戦争終結への
決め手をつかんだのであった。
 3月4日以来、政府軍の精鋭部隊をすべてつぎ
込んで猛撃した成果であったが、それまでに死傷
者三千名を数え、消費した弾丸は毎日30万発
以上、砲弾一千発以上という激しいものであった。

 田原坂の激戦に敗北した西郷軍は、その後も
人吉(ひとよし)・都城(みやこのじょう)・宮崎・延岡
などを転戦したが、いずれも敗退を繰り返し、日を
おうごとに兵力は弱まっていった。
 ここに至って西郷も諸隊の幹部を集め、戦勝の
機運がないことを告げ、解散の命令を下した。
各自、自由に行動をするようにとの命令によって、
西郷軍は実質的に解散となり、この時に西郷軍
から離れ、降伏した者は1万人余りに上った。

 西郷軍が宮崎あたりを転戦していた頃、西郷軍
が出払って空っぽとなっていた鹿児島に官軍が
侵攻してきて、あっさりと制圧してしまった。
この動きを知った西郷軍の司令官・桐野利秋が
部隊を率いて、鹿児島奪還を計ったが逆に官軍の
猛反撃に遭遇して、あえなく撃退されてしまった。

 解散命令を出した後の西郷は、300人ほどを
引き連れて、一路、故郷の鹿児島を目指した。
鹿児島に戻って、再起を計ろうと考え、官軍の追
撃を巧みにかわしながら進軍し、9月1日には城
下に入って、城山に立てこもった。2月15日の
出陣以来、実に199日振りの郷里であった。

 西郷軍は最後の決戦を決め込んで、鹿児島県
内に激を飛ばして、参軍を呼びかけた。これに呼
応するものもあったが、西郷軍がたてこもる城山
を幾重にも包囲する官軍が邪魔して、援軍に駆け
つけることができない。
 西郷軍は城山が包囲されたことを見て、塹壕を
掘って、守備を固めたが、所持する武器は小銃
150挺ほどで大砲は数門程度しかなかった。

 官軍は万全の包囲体制を整えてから城山に立
てこもる西郷軍本隊の殲滅を計画し、城山包囲を
形成した部隊は八個旅団にもおよび、総勢1万5
千という大部隊であった。
 わずか300人足らずの西郷軍相手にこれほど
までの大兵団を終結させて、殲滅戦を展開しよう
というのである。
 余りの兵団の多さのために西郷軍の陣地と官軍
の陣地がまじかに迫りすぎ、いざ戦闘が開始され
ると官軍の後方から発射された砲弾が官軍最前
線の陣地に着弾するといった具合であった。

 9月21日夜、西郷軍から官軍へ使者が送られて
きた。その目的は、大久保参議たち新政府の要人
たちが何故に西郷隆盛の命を狙ったのか。また、
その理由を尋ねるために上京しようとした我らの
行く手を阻み、討伐しようとするのは何故かとの質
問であった。
 それに対して、官軍総司令官・山県有朋は、「暗
殺のことをただすのであれば、紙一枚をもって告
訴すれば済む。無用に兵団を整え、政府を脅す
ような構えを見せた以上は、これを討伐する権限
は十分に備わる」と述べ、政府に何か訴えたいの
であれば、まずは武器を捨てて降伏してからにせ
よと使者に伝えた。
 この官軍の反応を受けた使者が西郷軍へと帰っ
ていったがこれに対する返答はなく、ついに最終
決戦へと入っていった。
 この使者との問答の時に山県有朋は自ら筆を
取って書状をしたため、西郷に宛てた手紙を使者
に託している。この手紙の内容は、ともに維新の
大業を成し遂げた西郷の悲運を悲しみ、維新の
元勲である西郷を討たねばならない心情の苦しみ
を述べていた。

 1877年(明治10年)9月24日午前4時ごろ、
官軍の一斉攻撃が開始され、激しい砲撃が展開
した。西郷軍側も多少の応戦を成すも兵力に大差
があり、ほとんど抵抗らしい抵抗を見せることなく
総員討ち死にを成した。
 西郷軍の生き残り部隊、総勢40名あまりは、
西郷隆盛を中心として、山を下る行軍を開始した
が、それも官軍の2400名にものぼる狙撃部隊が
これを捕らえ、一斉狙撃を開始。
 次々と西郷軍兵は討ち死にしていき、西郷自身
も股(もも)と腹に銃撃を受け、ついに進退窮まる
とそばにいた別府晋介に「晋どん、もうここらでよ
か」と述べ、自刃して果てた。
 西郷自刃後、別府は残りの兵たちと共に奮戦し
総員討ち死にを遂げている。こうして、不平士族
最大の兵乱はここに終結する。
 この城山の戦闘では、西郷軍の戦死者159名
を数え、官軍の戦死者は40名に及んだ。
山県の回顧談によると陥落した城山にのぼり、
一つ一つ死体を視察していた山県がふと首のない
死体に気づく。どうもこれは西郷ではないかと言っ
ていると、そこに誰であったか土に埋もれていた
首を山県の元へと運んできた。
 泥を水で洗ってみるとやはりその首は西郷では
ないか。その西郷の顔を見た山県は、その顔や
温和なるやと述べ、維新の英雄のあっけない悲運
な末路に涙をこぼして悲しんだという。





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